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新刊『民主主義の穴』嵯峨信之と芥川龍之介

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現在制作中の新刊『民主主義の穴』から
嵯峨信之氏についての部分をご紹介いたします。
 
 
「嘘と嵯峨信之 ―秘められた女性遍歴―」


 

――好きよといって
ぼくの小さな肩にやさしく顔をしずめた
女は十六才、ぼくは十五才だった

その夜台風と大津波に襲われてなにもかも一瞬に消え失せてしまった
砂村の家も小さな恋も時のすべても

夜半三十九度の発熱にひとり耐えている
湖の上を
水鳥の群れが音もなく舞い下りはげしく羽搏いて舞い上がったりしている
どこかへフルートの音が消えていく

ラジオのスイッチを切る
不眠のままいつしか外が明るくなっている
七十年――白い水脈のように時の一すじがつづく

 
 
これは嵯峨信之氏の最後の詩集『小詩無辺』から。
十五歳と十六歳の嵐の一夜、見事だ。
結婚歴三回、華やかな氏の女性遍歴の初陣を垣間見る一編だ。
十五歳だから、まだ宮中放校処分の前、この彼女は宮崎の女性だろう。

まさにセンダンは双葉よりカンバシと期待したいところだが、その点では、ガックリくる。
女性遍歴どころか、「女性」を扱ったものさえこれ以外はゼロなのだ。

死の直前まで詩作成者としてもまた詩集出版社「詩学」の経営者としても辣腕をふるった方、
様々な逸話が沢山の方々に語られているが、今回は誰にも語られていない、
自身も決して漏らされることのなかった氏の女性遍歴の一コマを、書いておきたい。

というのもあまりにたびたびその話しをされたからだ。
書き残して欲しいということでもあったのではないか?

<中略>

二十一歳で当時は発足間もない文藝春秋社に入社、
菊池寛に従って若手作家の育成に驀進された。
「これからは宣伝の時代だ。ガンガン写真をとってまずお前たちを有名にしたい。」
菊池寛が、ある日カメラマンを引き連れてきて、こうのたまうと、芥川龍之介が興奮、
突然下駄のままで近くの松の木に、駆け上って「さあ、撮れ、今、俺をとれ!」 と叫んだ……。

<中略>

詩はどこをさまよい歩くのか
自分に帰るために、自分から遠ざかるために…」
    (詩集『開かれる日、閉ざされる日』)

 
 
福岡の詩人兼評論家の樋口伸子さんが「シャイな遅咲きの詩人」と題して嵯峨信之を論じた評の冒頭である。
ヨーロッパ翻訳ものを中心に書評にエッセイに健筆をふるう樋口伸子氏、
悠揚迫まらぬ穏やかな筆致のなかに、含羞の人、嵯峨信之の姿がほいっとあらわれ、それから怒ったようにそっぽを向く。

なぜそっぽを向くのか?
なぜ口をへの字に曲げて、一言も発しないのか?
照れているのか?「自分から遠ざか」りたいのか?
それだけではないと思う。そこにそのあたりに彼の秘密、彼が死守する秘密があったり、ではなかったか。


(2008年7月、樋口氏と。富津にて)

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あまりにも、あまりにも(悪人正機の悪悪悪)7

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◆ソ連マルキシズム

万民平等を実現させたのかもしれないが、
処刑者数は1000万人以上と推定されている。
誰もがたたえる正しい思想であったずが、正しければ殺してもいいのか?

ナチスの思想も同じ、良心が起点。
よき社会。清浄な社会を目指し、
清浄でない者たちの殲滅を目指した。
600万人のユダヤ人を殺害している。
おびただしい殺人と底知れぬ不幸、
法然は、600年700年先の私たちの不幸が見えていたのではないか?
 

◆あまりにもあまりにもの悪人

悪人正機は人間みな悪人、これが前提である。
ともあれ悪人、万事悪人が法然教説である。
悪人でなければはなしにならない。
あまりにもあまりにもの悪人づくし何が分からないといって、
これが合点いかない人も多いのではないか?

仏教流に殺傷厳禁といっても、
最近はほとんどの人が殺傷とは無縁に暮らせるようになった。
殺すとしても蚊程度か?
一億総善人化、めでたいことである。
だが法然、親鸞に言わせるとめでたいどころではないのだ。
私たちは皆、見るもおぞましいものになっているということだ。

自身を見抜く感性なしの鈍感人間。
見抜いたとしてもそ知らぬふりで善人を装う卑劣漢。
つまり嘘つき……こういうのがゾロリ一億。
ああ、こんなことではいずれ災厄が……と怖がった方がいいのかもしれない。

言うな喋るなと制止される中を
法然は、いや、たとえこれで死刑になったとしても
これだけは言っておきたい……こう言ったとある。
災厄を防止したいとのおもいからではなかったか。
何か遠い私たちの未来に起こる災厄の根のようなものをみていたのではないか?

まずは「人は悪人」。
これは元々は中国は6世紀の人。
仏僧善導が言い出したこと。
私は悪人なりと、徹頭徹尾の悪人なり、と
終始わめき立てたてていたのだ。

善導にかかるとあれをしてもこれをしても悪人となるわけで、
女などは見ただけでもいけないのである。
こんな馬鹿者は中国広しといえど誰も相手にしないわけで、
宗派を作ることもなくて生涯を終えたのであるが、
こんな男に一人寄っていった者がある。
それが本邦日本国の法然。
なぜか?なぜそんな変わり者にひかれたのか?

彼もまた悪人だったからだ。
生まれたときからの生粋の悪人だったからだ。
容貌は親鸞の逆。
福徳円満、終始ほほえんでおられたらしい。
だが内心はどうだったのか?

彼は今で言うと兵庫県の出身。
横領子の息子。
5歳の時に父親を面前で斬殺されている。
下手人は何のとがめも受けてはいない。
父親は、悪人として断罪、処分されやということか?
仏門にはいるが、父を殺めた者たちへの
怒りと恨みは、瞬時も消えるはずはない。

「善人なおもて往生……」。
まずなにはともあれ、この父親を成仏させなければならなかった。
苦しんでいる極悪心重の人をまずは一番に往生させたい、
法然の悲願でもあっただろう。

そしてこの「悪」、
父から子へと連なる悪、懐かしくも捨てがたい悪は、
20世紀末、おそらくは法然の思うようなかたちで、しっかりと浮上してくる。
 

◆DNA、二重螺旋の発見

ユダヤ人科学者ロザリンド・フランクリンは、
私たちの細胞の中の核の中に、2つのリボンが絡み合う美しい螺旋を撮影、
それを垣間見た英国ケンブリッジ大学のワトソンとクリックは、
論文発表、二重螺旋DNAの発見者として、1962年ノーベル賞を受賞する。

引き続いて1976年には、
同じ英国人オクスフォード大学リチャード・ドーキンスが、
この螺旋を解析して「利己的遺伝子」を刊行、
遺伝子の全てがひたすらどん欲に自身の増大を目指していること、
ただひたすらの悪であることを明示、世界的なベストセラーとなったのだ。

ひたすらの悪、あまりにもあまりにもの悪である。
私たちを構成する細胞は一人約60兆個と推測されている、
その1つ1つが持つ二重螺旋の中の遺伝子は約22000個といわれている。
その気の遠くなるまでの数でありなから、そこには悪の遺伝子だけ。
「善」はなかったのだ。

紀元前の5世紀、今から2500年前、真善美をいうソクラテス。
あたかも腹の中にどかんと善を漬け込んでいるかのように善をひたすらの善を繰り返す。
それにならってプラトン、またまたそれに習って延々と善を言う人々は続き、
マルクスにヒトラーに、フーコーにと、こうしてヨーロッパを作り上げてきた。
だが、善はなかったのだ。

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あまりにも、あまりにも(悪人正機の悪悪悪)6

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◆悪人とは何か?

殺傷は厳禁の仏教国としては、まずは人を殺す武士、
つぎに魚を穫る漁師、山で獣を狩る猟師、
ほか遊女などが悪人となるだろうし、
また魚を料理する主婦、料理人などもまた悪人となる……

結局、ほとんどの一般庶民は悪人。
みんなしていずれは地獄行きと観念していたのではないか?
ところがその悪人こそが極楽往生するというのだから、
法然教理、まさに国中を驚喜させたわけで、
それも念仏、「南無阿弥陀仏」この6文字唱えるだけでいい、
僧侶へのお布施も必要はない、というから
良いこと尽くし、あっという間に全国に広がった。

今、念仏というと坊様以外では、
世ほどに年取った爺さん婆さんが、
ブツブツモソモソ……のイメージしか湧かないのだが、
この当時は老いも若きもひたすら念仏。
法然弟子の安楽など大変な美形でもあったので、
熱狂的な若い女性達にかこまれての念仏。
目下のロックスター並の人気ぶり。

都大路で時ならぬ渋滞、皆驚いて何事か?と行ってみると
荷車引きの婆さんが法然様のお言葉を書き付けた紙切れをそこらに落としたとか。
大騒ぎでそこらじゅうを探しまくっていた……などなど。
まさに日本中が法然仏教に念仏に燃え上がったのだ。
 

◆善人たち

以上は当時の悪人たち、
法然から極楽を授かってはしゃぐ様をもかきそえたのだが、
ではその逆の善人は、だれか?
どこでどう暮らしているのか?

上記悪人たち、つまり
武士漁民猟師農民遊女以外が善人ということになるわけだが、
具体的には公家、高級官僚、僧侶……など。

彼らも無論、善人目指して修行、
極楽往生をおもっていたわけで、
たとえば公家なら広大場所領を寺に寄進したり、
また浩瀚な仏典をまなんだり……の様々の善行を積んでいたわけだが、
法然またその弟子親鸞はこの善人志願を悉く否定、非難するのである。

願海は二乗雑善中下の屍骸を宿さず。
いかにいはんや人天の虚仮邪偽の善業、
雑毒雑心の屍骸を宿さん。
(教行信証・行巻)

 

何でもを飲み込んで受け入れてくれる海でさえ、善人はうけいれない。
人が善行とおって行うの行為や、様々の思いも、嘘いつわりの仕業、
そういうものの、どうして受け入れることがあるだろうか?

善は見るもおぞましいそうい代物、海さえはじき出す汚さ。
いても立ってもいえられぬ程に我慢できない……
こういう思いが伝わって来そうな勢いである。
そして、親鸞にあっては、
そのおぞましい善人を具体的に名指してしまうのだ。

主上、臣下、法に背き、義に違ふ。忿をなし、怨みを結ぶ
(教行信証・化身土巻)

 

1207年の弾圧について、政府を糾弾するのだ。
天皇またその側近の臣下たち。
まことに明快である、当時に会って悪人正機とはなんであったのか?
悪人を善人より上位に置くということはどういうことであったのか?
悪人善人相互の身分を逆転しただけでなく、
貴賎の身分をも逆転してしまったのだ、

悪人を手本となし、善人まで摂す

 

上人伝は法然の言葉をこう記録している。
農民など庶民いわば下層階級である「悪人」が
王侯貴族など上層階級である「善人」を支配統率する……
と口語訳してみたがどうだろうか?

法然は一般庶民に向けてものを言う。
仏教世界での救済より摂政に意味で話した可能性が高い。
「摂」を摂政の意味として、口語訳をしてみたのだが、
こうなると正に、自由平等の民主主義である。
自由平等のフランス革命1794年より600年も前に
早々と平等とを民主主義を主張した者があったのだ。
法然とその弟子親鸞たち。
親鸞の浄土真宗にいたってはその実行を目指して戦ったのだ。

浄土真宗は又の名を一向宗。
一向一揆となって界隈一帯に広がり、
ついには織田信長に反抗、6万人の死者を出している。
信長に敗れ去ってはいるが、その昔、平等を目指し
主主義を夢見て勇気凛々戦ったものがあったことは、
誇ってもいいのではないか?

今はもう怖い信長はいないのだから、おそれることはない、
日本庶民といえば、ただもう権力者にはいつくばるだけ、
金を追うエコノミックアニマルはそのなれの果て、
今度は金に這いつくばるとの評判もこれで払拭できるのではないか?

イデオロギーもなし、神も思想もないとされる日本国だが、
ここにはイデオロギーを排撃を言う思想がある、
イデオロギーの根幹をなすはすの正義、良心等等を
断固切り捨てる思想がこの私たちの奥でうごいているのだ。

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あまりにも、あまりにも(悪人正機の悪悪悪)5

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「私伝」、つまり「私に言う」として
源智が作りだした説はおそらく虚妄の説、
浄土真宗三世覚如は、これを法然の発言として、
この源智のベールに丁寧に補足している

覚如の説明。
目下の高校教科書が採用しているものだが、
やたらややこしい解釈で驚く。
まずは表題の「悪人正機」の「機」。
「対象」という意味だとしての解釈だ。
つまりそこらに人を対象とした一般論ではなく悪人向けの説、というのだ。

お阿弥陀様は踏み惑う悪人に的を絞って
まずは悪人を救おうとなさってる……というのだ。
阿弥陀様?
古代の僧侶が生み出した幻覚?
目下の高校生にあっては、一種化け物が出てきたってところか?
 

覚如は親鸞の孫、浄土真宗3世。
浄土真宗の宗主としては、こういう風に解釈してほしいということだろう。
「悪人は正機」が「悪人を正機」と主語をなくした代わりに、
阿弥陀様を連れてきて、かつ「正機」は「対象」の意味になり、
正義とか正しいとかの意味を一挙に剥ぎ取っている。

これだと法然ないしは親鸞がいったのではなく、
あたかも阿弥陀様がおっしゃったようにも聞こえるわけで、
テイのいい責任転化、危険思想は阿弥陀様のせいとして、
いざとなればにげようとの算段。

まずは保身。自分が大事。宗派の存続が大事、
そこらの人などどうでもいい。
徹底的な利己主義に徹した解釈である。

覚如という人、抜群の頭脳ながら、ワルとして有名な人、
流石と感心するが、「機」という字にはそこまで
強い意味を持たせるた例はすくないのではないか?

漢和辞典でいくと、「機」を資格を持つもの、
資質をそなえたもの、という意味がある。
その意味合いを込めて、正しさをより強調、
口語訳となると「こそ」をつけて
「悪人こそが正しい」としたが自然ではないか?

それに悪人にむけ、一般向けではないとなると、
まず自分を悪人と思っている人はいないから、誰も無関係。
みな聞く必要もない。
悪人のたまり場、刑務所にいってそこで説法してくれとなってしまう。

「お釈迦様はあんたら悪人がまずは極楽行くよおっしゃってますよ」など
刑務所でいってもどうなるか。
極楽より何より檻から出たいわけで極楽などとんでもないことだ。

覚如流でいくと、まことに整然と阿弥陀様の心を汲み取って
すっかり穏やかなものにはなるのだけれど、
相手は百姓、農民。いったいだれがこういう
ややこしい解釈ができるだろうか?

覚如が口伝えで説いているものだが、
まさにお利巧さんの学僧の世界である。
まことに無難優雅な説である。
もしこういう解釈ができたなら、苦境を案じて
法然に集った門徒たちは、法然に喋るな、など
制したりはしなかっただろう。
居合わせた全員がこうは解釈できなかったということだ。


 

◆源智の本当の解


これを嘘のベールというなら、本来の源智はどう理解したのか?
ひっそりと胸にしまい込んだ本当の解釈は?

悪人正機説の「機」、
何かと出てくるだが、明確に訳さないで場合が多い。
強調するために置くという具合だ。
ごく単純に・・・・悪人こそが正しいという説……
こうなるのではないか?
まずはこの法語27箇条、はじめに悪人は人の手本といっているのだ。
主語は当然、悪人となる。
お手本なんだから悪人は当然正しいとなる。

「善人なおもて……」も同じ、よけいな補足はいらない。
……善人が極楽往生するというなら、
より一層正しい悪人が極楽往生しないはずがない。
まず一番に悪人が往生するのだ……。

結局、農民漁民遊女たちに法然は言いたいのだから、
こっちも当時の農民漁民遊女になったつもりで読めばいいのだ。
馬鹿のままでいい。それが正しい読み方だろう。

もう阿弥陀様も登場しない。
誰がいったのか?法然様がおっしゃったのだ……となる。
嘆異抄の読者なら親鸞がおっしゃったとなるとなる。
ここに及んで誰もが驚き高弟達は危険を察知する。
だがここで論理は確かな強度を持って立ち上がるのだ。

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あまりにも、あまりにも(悪人正機の悪悪悪)4

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◆私伝

嘆異抄も上記と同じ解説をつけているが、
書き写した唯円もしくは親鸞が、
源智の「私にいう」を見落としたのだろう。

「善人なおもて……」と同じ発言者、
つまり法然の発言としての解説を加えている。

しかしこれは親鸞の解説でもなければ、法然の解説でもない。
源智の解説である。目下の教科書はすべてこの覚如を踏襲するが、
すべて唯円の誤読を元にしたもの、訂正すべきだろう。

日ごろより、身近に法然の発言を聞いて
学んできた源智にあっては、上記は、
危険とも奇怪ともしなかったのだろう、
その言葉を判らなかったはずがない。
三日三晩、必死と考えたとは何を考えたのか?

三日三晩も考えなければ分からないようなものなら、
書き付けたりはしなかっただろう。
分からなかったのではない。
見事な言葉、なんとしても記録すべきものだ。
問題は、これらをどう隠すかである。
これを三日三晩考えたのではないか。

今でさえ道徳蹂躙として仏僧安楽など
前途ある僧たちが死罪へと追い込まれているのだ。
これ以上の罪科は御免である、
なんとして隠蔽する必要があった。

法然も選択集を隠すことを指示している。
これは選択集の比ではない。
書き残すことと同時にそれを隠す必要があった。

どう隠すかを三日三晩かんがえたのである。
どういう方法で隠せばいいのか?
源智は嘘のベールで隠そうしたのだ。
危険千万な法然言説の上にフワリとべールをかけたのだ。
そのベールをすかして、それらしいものは見えるとしても、
それは真実とは違う。

ひたすらややこしく、
そのために安全無害となった惰弱虚妄の文言の群……
頭脳明晰、透徹した論理に打ち抜かれているはずの
法然言説は若干25歳、愛弟子源智の悪行によって
似ても似つかぬもの変容させられたのだ…… 

さてこのあたりは私の勘ぐり。
目下の解説、
教科書採用の解説が不審でならなかった。
おかしい、法然にしろ、親鸞にしろ、
話す相手は農民、武士、遊女、漁民、
……こういうややこしい論理を説いたりするだろうか?

そんな小難しい事を言うはずがない。
こんな小ざかしいことをするはずがない。
法然はその絶筆に学問不知をいう、
早い話が学問してはいけないのだ。

ところがこの解説は
学問なければ読み解けない。おかしい……
上人伝をみて初めて氷解したこれは源智の悪だくみだ。
法然教理を故意にねじ曲げたのだ。
「悪人を人の手本となし……」
これで源智は自信を持って悪人に変貌したのだ。
源智によってなんだか訳の分からない教理となったのだが、
ともかく脆弱惰弱に安全無害になったのだ。
それなら生き延びる事ができる……

悪行をなす悪人こそが、人々の模範であり、手本である。
悪人こそが、善人を含めてすべてを掌握して統率できるのだ。
源智はこう読み解いたのではないか?
平家の総帥、平清盛の曾孫源智として、
なんとしても清盛の轍は回避しなければならなかった。

一族は全滅、彼は父を失い、兄を弟を失い、
叔父叔母も、友も部下もなく、すべてが奪われたのだ。
源智にあっては、
法然門下は彼の家族一族にかわるものとしてあったはず、
なんとしても守り通し末永く永続させる必要があった。

そのためには何でもをやる。
悪行も全てを入念に細心の注意をはらって、
時に善行と欺きつつ、悪智恵の限りを尽くして、
あの手この手の策を巡らし……
こうして100年200年、
いや1000年2000年と生かし続けなければならない。

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新刊告知『魚野真美詩集 天牛蟲』

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詩誌『Lyric Jungle』を中心に、数々の詩篇を発表する
関西若手詩人、魚野真美による処女詩集。
厳選された35篇の作品は力強く、そして不穏な空気が漂っている。
 
 

『魚野真美詩集 天牛蟲』

 
 


 

肩をたたかれる
月が手招きする
しかし張り手が飛んでくる
頭打ちにされる
月が
鳩が
雨が
酒が
足が
私の身体を踏んづける
花は地面に刺さったまんま
やあ本日も晴天ナリ

 
     P.130「TOKYOタイムトラベラー」から

 
 


 
 
当初、タイトルは『夜の目撃者』だった。
しかし、イガ編集より
「この詩集のイメージは蟲である」と声が挙がり、
表紙も蟲を題材にする事となった。

蟲とは何か?
P.36「腐赤蟲」だ。
この詩篇では腐赤蟲は脇役であり、詩、そのものだ。
朧げな姿を見え隠れさせつつ、決して詩の中にはっきりと存在はしない。
しかし、腐赤蟲なくしてこの詩はなりたたないのだ。

実はP.50「螺旋」にも蟲という言葉が1度だけみられる。
著者は蟲になると。

いや著者が蟲になるとは限らない。
少なくとも誰が蟲になったかは描かれていないのだ。

著者の真意はわからない。
少なくとも、著者の近影をしる人間が
著者を蟲と思う事はまったくありえない。

蟲とはいったい?

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