イガイガボン

出版の(株)iga

奇怪本か?? ドラゴン下巻

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ドラゴンといえば、空を駆けるもの、イガイガ本のドラゴンのように、海に潜ったのは少ない。
絵でいうとパウル・クレーの怪獣退治くらいか?
小舟の男が、長い槍で海から顔をのぞかせている怪獣たちを退治しようとしている。

Paul_Klee

ところで、この小舟に女が乗っていたら?
男ではなく女ならどうするか?

おそらく、槍を投げ捨てるだろう。
いちいち恐ろしい怪獣に刃向かったりはしない。
彼らが悠々と海を泳ぐのを眺めていた方が楽である。
怖い思いは押し殺してもそうした方がいい。

もし彼女が欲張りなら、どうするか?
せっかく見つけたドラゴン、見るだけではもったいない、なんとか縮めて持って帰れないものか、ちょいと縮めれば結構な現代アート、壁飾りにして売り出したり……と強欲頭をキリキリはたらかせる……にならないか?

今回の小舟には強欲女が3人、何食わぬ顔で竜をおだてて、ばっちり撮影、圧縮して持ち帰り小型化したもの……と私は見ているのだけれど、うまく圧縮できたのかどうか?かわいいドラゴンちゃんにできたかどうか?

ドラゴンなんか小型化しなくともいい、我が家にはすでに一匹、中型がいる、女房で十分……という人がいるかもしれない。
でも、海のドラゴンといえば、これはもう、あの恐ろしい「津波」である。
何とか小型化する必要があるのだ。

 
ドラゴン評


今までにない沢山の感想をいただいたのだけれど、上巻と違って圧倒的に女性。
上巻での男性ファンは、宗旨変え、沈黙スタイルに変わった人が多い。
で、まずは女性。
女性では、江夏名枝さんや北川朱実さん。素敵な感想をいただいた。
イガイガ・ドラゴンに予想もしない魅惑を発見していただいたりで、びっくりした。
ひょっとして彼女たちはドラゴンではないのだろうか?

男性では酷評?に注目した。
はじめは驚いたが、これが一番、正確なのかもしれない。
つまり竜の眺め方なのだが、きちんと正しい位置から、眺めているのではないか?

お二人ほぼ同じ感想なのだけれど、一人は作曲家の高橋芳一さん、もう一人は詩人の中川千春さん、「頭がグルグル混乱しました、よくもまあ、こんな複雑なこと、考えていられますねえ」
中川さんは、その上に奇書との評、かつ、目下のこのブログを「怪文書」とも評された。
仰天したのだけれど、見る人からみれば正にそうかもしれない。

 
怪文書の続き


で、以下怪文書を続けるのだが、ただ対談者(作者たち)は、絵入り図入り、優しい楽しい一種絵巻物のような娯楽本にしたいと喋り続けているのだ。
誰もが分かる、読めば漸次頭もすっきり整理されてくる……そういう重宝かつ便利な読み物を作ったつもりなのである。
ストーリーは次から次へと無理なく続いていくはずだ……だがふと遠望すると、どうなるか?特に善悪をポイントに全体を眺め渡すとどうなるか?

無差別殺人鬼、机竜之介一人ならまだ許せるのを下巻にいたるや、一万一千人もの処女を犯して殺害した凶悪無類の殺人鬼を大暴れさせた上に、絶賛を惜しまない……これはもう徹底的な悪人礼賛かと思いきや、そのまま利他主義専門、貧民救済に没頭した法然や親鸞へと突入、今度はたちまち利他主義に変心して、いじめにあえぐ学童を助けられないかと、思い悩む……。

悪人礼賛のようで、またまた逆走、まさに無茶苦茶である。
頭ぐるぐるになってしまうだろう。
いったい「ドラゴンintheSEA」は何を言いたいのか?何を主張しているのか?

思うに、一切の主張をしていないのではないだろうか?
書物がいちいち何らかの主張をする必要があるだろうか?
テーマは次々に変容、一切のテーゼもなし崩しに壊しながらこのドラゴンは海を進む。
でも私たちの日常はこういうものではないか?

A→B→C→D→……話は進む、ふと足を止め、A→Dを見たらどうなるか?
もう「→」ではつなげなくなっている。
だが事実はそう流れ、そんな風につながってグニャグニャと進んで行くのではないか?

話を元に戻したい、小舟の上の女3人に戻ってみよう。
彼女たちはドラゴンから、何らかの利得を得たいとして、ドラゴンを眺めているのだ。
ドラゴンに魅入られた風情ではあるものの、その実は最新技術をバッチリ搭載したカメラを隠し持ち、ドラゴン神の裏の裏まで見極めようと目を凝らしているのだ。

ドラゴンの主張など、聞こうとは思わない。古代神殿の巫女たちとは違う。
そんなことはどうでもいい。
海の波間に見え隠れするドラゴンの全容を何とかとらえたい。
海の奥までカメラを潜らせ、まずは全景を把握したい。
何らかの利得は、そこから、自ずから浮かびあがるだろうが、まずは、全容の把握が先決……このあたりが彼女たちの状況か?

ところが、いったい仮にも全容が把握できたとして、全容らしきものを視界に浮上させたとして、この私たちにそれを見る能力があるかどうか、である。
ただのグルグル巻にしか見えなかったりでは困るのだ。
何せ、ヨーロッパ・ドラゴンといえば、頭を9個もつけて古代ギリシャを泳いだプラトン竜。
これを初めとして、見るに耐えないものばかり、目を覆うしかないのではないか?

けれど、万事は慣れである。
ピカソのゲルニカだって、倉庫の壁にでも描かれたら、直ちに落書きとしてふき取られたことだろう。
モネの睡蓮だって同じ、睡蓮かどうかさえ分からない。
ここらにああいうごちゃごちゃした池があれば、管理不行き届きで、役人は処罰されるだろう。

だが、慣れてくれば別。
落書き風ピカソ絵から、見事な新型美女が登場したように、こちら多頭の竜ながら、なんせ脳味噌は9匹分、尋常ではないのだから、見事なエロス竜へとしっかり変容してるかもしれない。
無闇と多い脚ながら、そのうち目が慣れてどの1本がどう動けば、金が儲かり、どちらに跳ねれば災厄になるのかも、漸次、分かってくる。
まずは見ることであり、見て慣れることである。
 
 
ドラゴン in the Sea 上・詳細ページ


ドラゴン in the Sea 下・詳細ページ

Written by イガイガボン

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