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20世紀と殺人鬼(1)

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ドラゴンが、タイトルなんだから、早々おとなしい本には、ならないのだけれど、問題は殺人鬼。
上巻、大菩薩峠の机竜之介にひき続いて、下巻ではアポリネール、『一万一千本の鞭』から、殺人鬼モニーが登場して大暴れ、かなり危ない本となってしまった。

20世紀は殺人の世紀、ホロコーストに原爆に大戦……と、おびただしい殺戮である。
恐らくは、これらを生み出した私たちの中の残酷をそっくり汲み上げて、これら物語が浮上、竜之介やモニーを生んだと思われるが、だからといって殺人礼賛をするわけにはいかない。
そういう時代だからこそ、いよいよ皆で声を大にして平和平和と騒ぐのだけれど、このドラゴンは別。
なぜ、いちいち殺人小説を取りあげるのか。

それも二千年来の新約聖書と並べて、あるいはアダム・スミス『国富論』等々名著の数々と同レベルで評価していくのか?なぜそこまで浮上させるのか?
まず気になるのが双方が抱える大量の読者だ。
大菩薩の場合は、新聞連載にはじまって後には、筑摩書房と富士見書房で単行本化。
最近は数種類もの文庫本が販売されている。
1万1千本も同じ。東洋の果てに流れ着いて複数の版元で、文庫化されて版を重ねている。世界を見渡せば驚くべき読者数になるだろう。

なぜ皆殺人小説を読みたいのか?
殺人も殺意も、もう真っ平、見たくも聞きたくもないはずを、実はこれは上辺だけのことなのか、その内実は殺意に満ち満ちて……ということか?皆争って平和を言う、だがそれが本音だろうか?本音の裏側の部分で私たちは「殺人」を愛し、期待し、狂喜しているのではないか?建前はもういい。言い尽くされてきた。ドラゴンは、誰もが隠し持っている部分を露出させていく。

だが、ここで心配。
そんなものを露出させては、読者を殺人へと走らせたりしないだろうか?
物騒な殺人鬼と言っても万事は、物語の中、まず現実には作動しない。大菩薩峠と『一万一千本の鞭』、双方大量の読者を抱えながら、だからといってそれら読者が殺人に走った、という事は聞いたことがない。
また作品と作者は違う。中里介山など、粗衣粗食、聖人君子のごとき日常で驚くばかり。
アポリネールも繊細な人、盟友ピカソと共にモナリザ盗難の容疑がかけられた時は、とことんへこんでしまっている。双方、殺人どころかである。

ギョーム・アポリネール

ギョーム・アポリネール

むやみと読まれるだけ、社会的にはそれほどのインパクトは持たないか、といえばそうなるのだが、それならば、ほかは捨ててなぜこれを取り上げたのか?

特にアポリネール。
その絵画評論では、ピカソや、マリー・ローランサン、マックス・エルンストなど、現代画家を浮上させて、現代美術を切り開いた人。
詩もまたこれまでとは異質の詩編で、詩の世界を一変させ……と活動範囲は多岐にわたるのを、なにもたった1晩で金欲しさに書いたポルノ本をとり上げることもない、と言われそうだが、これは彼のもう1つの仕事、マルキ・ド・サドの発見に直結していくという点で、見逃せない。

生涯の大半を牢獄で送った16世紀のサド公爵、
誰もが読解できないまま捨ておかれた彼の哲学をアポリネールは若く美しい貴公子プリンス・モニイ・ヴィベスクに装填して、送り出したのだ。

17世紀、フランス貴族の城館の奥で誕生、埋もれ忘れられたままの古色蒼然たるサドの奇怪本は、華やかな蕩児の冒険物語として新たな生を得て現代に復活、ダイナミックに走り出し……
こうして初めて、ヨーロッパ・ドラゴンが、in the Sea、海の中から浮上したのだ。
 
 
ドラゴン in the Sea 上・詳細ページ


ドラゴン in the Sea 下・詳細ページ

Written by イガイガボン

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