イガイガボン

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あまりにも、あまりにも(悪人正機の悪悪悪)5

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「私伝」、つまり「私に言う」として
源智が作りだした説はおそらく虚妄の説、
浄土真宗三世覚如は、これを法然の発言として、
この源智のベールに丁寧に補足している

覚如の説明。
目下の高校教科書が採用しているものだが、
やたらややこしい解釈で驚く。
まずは表題の「悪人正機」の「機」。
「対象」という意味だとしての解釈だ。
つまりそこらに人を対象とした一般論ではなく悪人向けの説、というのだ。

お阿弥陀様は踏み惑う悪人に的を絞って
まずは悪人を救おうとなさってる……というのだ。
阿弥陀様?
古代の僧侶が生み出した幻覚?
目下の高校生にあっては、一種化け物が出てきたってところか?
 

覚如は親鸞の孫、浄土真宗3世。
浄土真宗の宗主としては、こういう風に解釈してほしいということだろう。
「悪人は正機」が「悪人を正機」と主語をなくした代わりに、
阿弥陀様を連れてきて、かつ「正機」は「対象」の意味になり、
正義とか正しいとかの意味を一挙に剥ぎ取っている。

これだと法然ないしは親鸞がいったのではなく、
あたかも阿弥陀様がおっしゃったようにも聞こえるわけで、
テイのいい責任転化、危険思想は阿弥陀様のせいとして、
いざとなればにげようとの算段。

まずは保身。自分が大事。宗派の存続が大事、
そこらの人などどうでもいい。
徹底的な利己主義に徹した解釈である。

覚如という人、抜群の頭脳ながら、ワルとして有名な人、
流石と感心するが、「機」という字にはそこまで
強い意味を持たせるた例はすくないのではないか?

漢和辞典でいくと、「機」を資格を持つもの、
資質をそなえたもの、という意味がある。
その意味合いを込めて、正しさをより強調、
口語訳となると「こそ」をつけて
「悪人こそが正しい」としたが自然ではないか?

それに悪人にむけ、一般向けではないとなると、
まず自分を悪人と思っている人はいないから、誰も無関係。
みな聞く必要もない。
悪人のたまり場、刑務所にいってそこで説法してくれとなってしまう。

「お釈迦様はあんたら悪人がまずは極楽行くよおっしゃってますよ」など
刑務所でいってもどうなるか。
極楽より何より檻から出たいわけで極楽などとんでもないことだ。

覚如流でいくと、まことに整然と阿弥陀様の心を汲み取って
すっかり穏やかなものにはなるのだけれど、
相手は百姓、農民。いったいだれがこういう
ややこしい解釈ができるだろうか?

覚如が口伝えで説いているものだが、
まさにお利巧さんの学僧の世界である。
まことに無難優雅な説である。
もしこういう解釈ができたなら、苦境を案じて
法然に集った門徒たちは、法然に喋るな、など
制したりはしなかっただろう。
居合わせた全員がこうは解釈できなかったということだ。


 

◆源智の本当の解


これを嘘のベールというなら、本来の源智はどう理解したのか?
ひっそりと胸にしまい込んだ本当の解釈は?

悪人正機説の「機」、
何かと出てくるだが、明確に訳さないで場合が多い。
強調するために置くという具合だ。
ごく単純に・・・・悪人こそが正しいという説……
こうなるのではないか?
まずはこの法語27箇条、はじめに悪人は人の手本といっているのだ。
主語は当然、悪人となる。
お手本なんだから悪人は当然正しいとなる。

「善人なおもて……」も同じ、よけいな補足はいらない。
……善人が極楽往生するというなら、
より一層正しい悪人が極楽往生しないはずがない。
まず一番に悪人が往生するのだ……。

結局、農民漁民遊女たちに法然は言いたいのだから、
こっちも当時の農民漁民遊女になったつもりで読めばいいのだ。
馬鹿のままでいい。それが正しい読み方だろう。

もう阿弥陀様も登場しない。
誰がいったのか?法然様がおっしゃったのだ……となる。
嘆異抄の読者なら親鸞がおっしゃったとなるとなる。
ここに及んで誰もが驚き高弟達は危険を察知する。
だがここで論理は確かな強度を持って立ち上がるのだ。

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あまりにも、あまりにも(悪人正機の悪悪悪)4

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◆私伝

嘆異抄も上記と同じ解説をつけているが、
書き写した唯円もしくは親鸞が、
源智の「私にいう」を見落としたのだろう。

「善人なおもて……」と同じ発言者、
つまり法然の発言としての解説を加えている。

しかしこれは親鸞の解説でもなければ、法然の解説でもない。
源智の解説である。目下の教科書はすべてこの覚如を踏襲するが、
すべて唯円の誤読を元にしたもの、訂正すべきだろう。

日ごろより、身近に法然の発言を聞いて
学んできた源智にあっては、上記は、
危険とも奇怪ともしなかったのだろう、
その言葉を判らなかったはずがない。
三日三晩、必死と考えたとは何を考えたのか?

三日三晩も考えなければ分からないようなものなら、
書き付けたりはしなかっただろう。
分からなかったのではない。
見事な言葉、なんとしても記録すべきものだ。
問題は、これらをどう隠すかである。
これを三日三晩考えたのではないか。

今でさえ道徳蹂躙として仏僧安楽など
前途ある僧たちが死罪へと追い込まれているのだ。
これ以上の罪科は御免である、
なんとして隠蔽する必要があった。

法然も選択集を隠すことを指示している。
これは選択集の比ではない。
書き残すことと同時にそれを隠す必要があった。

どう隠すかを三日三晩かんがえたのである。
どういう方法で隠せばいいのか?
源智は嘘のベールで隠そうしたのだ。
危険千万な法然言説の上にフワリとべールをかけたのだ。
そのベールをすかして、それらしいものは見えるとしても、
それは真実とは違う。

ひたすらややこしく、
そのために安全無害となった惰弱虚妄の文言の群……
頭脳明晰、透徹した論理に打ち抜かれているはずの
法然言説は若干25歳、愛弟子源智の悪行によって
似ても似つかぬもの変容させられたのだ…… 

さてこのあたりは私の勘ぐり。
目下の解説、
教科書採用の解説が不審でならなかった。
おかしい、法然にしろ、親鸞にしろ、
話す相手は農民、武士、遊女、漁民、
……こういうややこしい論理を説いたりするだろうか?

そんな小難しい事を言うはずがない。
こんな小ざかしいことをするはずがない。
法然はその絶筆に学問不知をいう、
早い話が学問してはいけないのだ。

ところがこの解説は
学問なければ読み解けない。おかしい……
上人伝をみて初めて氷解したこれは源智の悪だくみだ。
法然教理を故意にねじ曲げたのだ。
「悪人を人の手本となし……」
これで源智は自信を持って悪人に変貌したのだ。
源智によってなんだか訳の分からない教理となったのだが、
ともかく脆弱惰弱に安全無害になったのだ。
それなら生き延びる事ができる……

悪行をなす悪人こそが、人々の模範であり、手本である。
悪人こそが、善人を含めてすべてを掌握して統率できるのだ。
源智はこう読み解いたのではないか?
平家の総帥、平清盛の曾孫源智として、
なんとしても清盛の轍は回避しなければならなかった。

一族は全滅、彼は父を失い、兄を弟を失い、
叔父叔母も、友も部下もなく、すべてが奪われたのだ。
源智にあっては、
法然門下は彼の家族一族にかわるものとしてあったはず、
なんとしても守り通し末永く永続させる必要があった。

そのためには何でもをやる。
悪行も全てを入念に細心の注意をはらって、
時に善行と欺きつつ、悪智恵の限りを尽くして、
あの手この手の策を巡らし……
こうして100年200年、
いや1000年2000年と生かし続けなければならない。

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新刊告知『魚野真美詩集 天牛蟲』

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詩誌『Lyric Jungle』を中心に、数々の詩篇を発表する
関西若手詩人、魚野真美による処女詩集。
厳選された35篇の作品は力強く、そして不穏な空気が漂っている。
 
 

『魚野真美詩集 天牛蟲』

 
 


 

肩をたたかれる
月が手招きする
しかし張り手が飛んでくる
頭打ちにされる
月が
鳩が
雨が
酒が
足が
私の身体を踏んづける
花は地面に刺さったまんま
やあ本日も晴天ナリ

 
     P.130「TOKYOタイムトラベラー」から

 
 


 
 
当初、タイトルは『夜の目撃者』だった。
しかし、イガ編集より
「この詩集のイメージは蟲である」と声が挙がり、
表紙も蟲を題材にする事となった。

蟲とは何か?
P.36「腐赤蟲」だ。
この詩篇では腐赤蟲は脇役であり、詩、そのものだ。
朧げな姿を見え隠れさせつつ、決して詩の中にはっきりと存在はしない。
しかし、腐赤蟲なくしてこの詩はなりたたないのだ。

実はP.50「螺旋」にも蟲という言葉が1度だけみられる。
著者は蟲になると。

いや著者が蟲になるとは限らない。
少なくとも誰が蟲になったかは描かれていないのだ。

著者の真意はわからない。
少なくとも、著者の近影をしる人間が
著者を蟲と思う事はまったくありえない。

蟲とはいったい?

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あまりにも、あまりにも(悪人正機の悪悪悪)3

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◆法然上人伝

大正時代、醍醐寺出発見されたため、醍醐本ともいわれる江戸時代の写本。
おそらくは時代時代には相当数が筆写されたのだろうが、
残存するのはこの1冊だけ。
嘆異抄の写本、26冊に比べると1冊とは余りにさびしい。

何しろ長大、嘆異抄の優に10倍以上はある。
簡単には書き写すことができない。
おまけに全体が漢語で書かれているので、読みにくい。

師の法然の選択集にしろ、嘆異抄にしろ、誰でもが読めるよう
和語で書かれているのにおかしなことである。
わざと読みにくくしたのではないか。
あまりに出回らぬようと意図してのことではないか?

この源智、たとえ集会を開いたとしても
数人以上となると、多すぎるとして、集会を取りやめたらしい。
ひたすら念仏の人であったというから、
大人しいだけの内気な人の印象だが、
それでは信徒48000人を掌握できるはずがない。

源智は教義について話したくなかったのではないか?
例えば「法然様のこれについてどうおっしゃってましたか?」と聞かれたとしても
「私は念仏だけ、そういうことは存じません、」と答えていたのではないか?
これでは判りたくとも手の打ちようがない。

しかし一切を話したとして誰が理解できるだろう。
教義をよくよく知悉するだけに、集会などで
ふと漏れるのを回避しようとしたかと思われる、
とにかく彼が書き取った法然教義、尋常なものではなかったからだ、
 


 
 
◆上人伝構成

法然上人伝は生涯の行状を記録すると共に、
3つの法語集の記録しているが、うちの最後に収録された
27箇条の法語の中に問題の「善人のなおもて……」が記録されている。

成立は1207年、法然75歳、土佐への配流直前主のと推測されている。
すでに安楽などの死罪も確定、
周辺は大混乱のこの前後を記録したものが残されているのだが、
法然が話に僧たちは驚いて、そんな事はおっしゃってはいけませんと
皆で法然を制したというのだ。

中に一人進み出て熱心に聞いて書き取った者がいるらしい。
おそらくこれが源智だろう。
おそらくは彼は、危険とも奇怪ともしなかったのだろう。
その言葉の真の意味を瞬時に理解、是非とも残すべき法然の至言とみたのだ。
弱冠25才、そうでなければ、先輩年配の高弟たちに反してまでのことをするはすがない。

さて、この27箇条、まず前半にある一文である。

この宗は、悪人を手本となし、善人まで摂す

 
ただ驚くほかはない。どう訳したらいいのか。
……浄土宗は悪人を人のあるべき手本なして、善人をも救済する
仏僧むけとしてはこう訳すべきか?

摂す、は仏教では救済するという意味。
政治の世界では、摂政として、支配し統率するという意味になる。
後者をとると、悪人が善人をも統率する……という意味にもなるのだろうか。

悪人は、自身の悪を見抜く視力を持った人、
または正直にに自分の悪をさらけ出す人、とかの解釈をつけ加えて、
何とか少々は理解するとしてもなんとも奇怪な説である。

そして最後が「善人なおもて……」を表題として一文。
法然の言葉はこの表題だけ。
表題の次が「私云」つまり「私に言う」。
こう断って源智が自身の見解を加えている。

……お阿弥陀様は踏み惑う悪人に的を絞って
まずは悪人を救おうなさってる説である。
だからもし善人が極楽に行くというなら、
阿弥陀様が救おうとなさってる悪人が行かないなずがない、
まずは悪人の極楽行きが先である……

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山岡遊主宰「詩の虚言朗読会」最終回を終えて

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2013年から開催されてきた、
山岡遊 主宰「詩の虚言朗読会」は
本年4月1日、第9回目をもって最終回となった。

分かりやすい詩、かなり砕けた詩編が中心。
ダイナミックな朗読で、毎回盛況、
自由奔放、にぎやかな展開で場内を沸かせた。
終演の理由は、山岡遊氏が故郷土佐の高知への帰還のため。

私は加藤温子さんの紹介で山岡氏を知った。
温子さん曰く、
「どういう場合も彼は正しい。彼は誠実だ。彼は間違わない」

私はそうは思わない。
山岡遊は、しょっちゅう間違え、
四六時中騙され、そして泣いてる。

つまり彼はいつも青春時代ってことだ。
飽きもせず、懲りもせず、青春時代ってことだ。

最終回で面白かったのは、
井川博年「ゴシップ歌謡曲」と
山岡遊のギター弾き語りで「ろくでなしのラブソング」の2編。
 


 
ゴシップ歌謡曲  井川博年

青江三奈は哀しい。いつ見ても同じ髪型。金粉や銀粉が光る不思議な髪。寝る時も首にガーゼを巻くというその心がけも哀し、

藤圭子は哀し。盲目の母がいるという。さすらい流れた幼い日々があるという。川端康成がテレビで見て、会いたいというので、鎌倉の川端邸で、肩たたきをしたという。その話もまた哀し。

こまどり姉妹は哀し。再起の望みのない病とか。疲れた厚化粧と,良ければよいほど目立つ着物と、「見る度に不快だ」という学生が多かったのも哀し。人情紙のごとし。浅草も哀し。

淡谷のり子も哀し。わが友Iがアルバイトで楽屋にコーヒーを届けると、女史が老眼鏡をかけ一人毛糸の編み物をしていたという。女史の手元の毛糸の色哀し。

都はるみも哀し。こども時から歌をうまく歌えぬと、おやつももられなかったという。うなり声と小節を出すのに何度も喉をつぶしたという。最上級の着物も哀し。

菅原ツヅ子も哀し。あの奇妙な節まわし。古賀政男の養女になっていたというのも哀し。菅原ツヅ子を養女にした古賀先生の孤独も哀し。

美空ひばりも哀し。奇抜な服装と、一筋の涙。天才は哀し。音符が読めないという話も哀し。自ら下手な作詞をするのがさらに哀し。足の痛みをこらえて舞台に立つ最後の日々の昼食は、ショーチューとチャーシューメンだったという。ああショーチューとチャーシューメン。

 


 
ろくでなしのラブソング  山岡遊

 


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イガイガ本ニュ-ス【新刊2冊のお知らせ】

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2017.4.1

■魚野真美・第一詩集『天牛蟲』(かみきりむし)

大阪の詩誌『Lyric Jungle』(編集:平居謙)で活躍中の若手詩人、魚野真美。
商都大坂を踏みしだいてダイナミックに開花している。
添付の挿し絵は詩篇「じん、じん、騒ぐ」から。
花が窓辺を飛び出し、ジンジン突き進んで行く……

首を吊った花
窓辺でかわいて
落ちる
・・・・中略・・・・
外へ
飛び出してゆき
飛び出してゆき
ゆきゆきて

じん、じん、
騒ぐ
     「じん、じん、騒ぐ」から

 
 
枯れた花までも元気、いいことではないか。

「大大阪純情飴雨アラレ」
「酩酊ユニバース」
「三角地帯に勇み立つ日まで」
等々
商都大阪の息吹が迫って圧巻。

 
 
 


 
 
■阿賀猥・エッセイ集『あまりにも、あまりにも』5月刊行予定

フーバー回顧録から

F・ルーズヴェルト

法然の高弟 源智

勢観房源智上人 知恩寺蔵




阿賀猥のエッセイ「詩学」連載のものから1編。
対談本『ドラゴン in the Sea』刊行後に開示された新資料で
日米開戦の裏事情を紹介する2編など。

たとえばフランクリン・ルーズヴェルト。
民主主義の旗手のようなもて方だが、実は彼は、
よほど以前から日米開戦を策謀してきた「殺人狂」とする
アメリカ31代大統領フーバー回顧録を紹介。
『ドラゴン in the Sea』上巻、真珠湾攻撃の裏事情を補強する。

ルーズベルトは稀なる美形。
人権論者の夫人のほかに数名の愛人がいた。
これは鎌倉仏教、法然にいう「内心と外相の不調」の典型的な例。
内心と外見は真逆のときが多い。
美男美女は危険ということか?

さほどの美男ではなかったが、
普遍的な正義を言い募ったヒトラーといい、
きれいごと、きれいなイデオロギーが席巻したのが20世紀。
世界中が正義やら良心やらに目覚めて走り出してしまった。
共産主義にしろナチスの思想にしろ良心にもとずいて、よき社会を目指したもの。
だがあまりにもの虐殺。
ソ連の虐殺被害者はナチス犠牲者の10倍以上にものぼる。
これをどう解釈すればいいのか?

このあたりもかの法然が有効だ。
一枚起請文「観念にあらず学問にあらず」と
正義、ないし善、良心など観念の一切を一刀両断に糾弾する法然思想。

戦後日本詩の情念の基幹でもある良心だが、
法然流にメスを入れざるをえないのではないか?
法然教理、普通に見れば、奇怪、不可思議にも見えるが、
今世紀おそらくは22世紀、23世紀へも直進、有効に稼動出来うる哲理かとも思われる。

あまりにもあまりにもの過激な教理に、口を閉じよと師を制する弟子たち、
「皆様、法然様のいうことは聞いてはいけません」と言い立てる者もいる。
「いや私は首を斬られてもいい、これだけは言っておきたい」と法然……
騒然とする中にただ一人進み出てしっかりと記録していく勢観房源智。

本稿では、若き法然高弟、源智にスポットをあて、源智の側から法然を探って行く。