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新刊『民主主義の穴 ―法然からトランプまで―』

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著者:阿賀猥
 
出版:(株)iga
販売:(株)星雲社
発行:2018年1月
判型:A5 207P
ISBN 978-4-434-24035-5
C0095 ¥1100E
 
定価1,100円+税


 
 

正義の穴、
 
理念の穴
 
感性の穴、
 
世界の穴
 
 
穴の中の民主主義


 
 
 
民主主義? 共産主義? そんなものに頓着するだろうか。
甘い甘い麻薬のように甘美なルーズベルトの民主主義、万人がとろけても彼はとろけない。

裏切られた果てに倒れた遺伝子学者ロザリンド、悪罵を受け撃沈した天才マンデヴィル・・・
彼らを抱き取ろうと時空を越えて翔ける法然と源智、傑作マンガもそえて送る世界の裏歴史。
 
 


 
 

もくじ

 

  1. 東尋坊からヒラリ
    ―神尾和寿さんのとても変な詩―
  2.  

  3. カランカランの貝の声
    ―シュピールラインとヤマトナデシコ―
  4.  

  5. ちゃらんぽらん幽霊
    ―W・バロウズと八百万の神―
  6.  

  7. あまりにも、あまりにも
    ―源智の悪人正機―
  8.  

  9. 嘘と嵯峨信之
    ―秘められた女性遍歴―
  10.  

  11. オーッ!アダム・スミス
    ―ずるいスミスと天才マンデヴィル―
  12.  

  13. トランプさん、こんにちわ!
    ―民主主義の穴―

 
 

 

 
 

 
 
 
 
 
 
 

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新刊『民主主義の穴』嵯峨信之と芥川龍之介

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現在制作中の新刊『民主主義の穴』から
嵯峨信之氏についての部分をご紹介いたします。
 
 
「嘘と嵯峨信之 ―秘められた女性遍歴―」


 

――好きよといって
ぼくの小さな肩にやさしく顔をしずめた
女は十六才、ぼくは十五才だった

その夜台風と大津波に襲われてなにもかも一瞬に消え失せてしまった
砂村の家も小さな恋も時のすべても

夜半三十九度の発熱にひとり耐えている
湖の上を
水鳥の群れが音もなく舞い下りはげしく羽搏いて舞い上がったりしている
どこかへフルートの音が消えていく

ラジオのスイッチを切る
不眠のままいつしか外が明るくなっている
七十年――白い水脈のように時の一すじがつづく

 
 
これは嵯峨信之氏の最後の詩集『小詩無辺』から。
十五歳と十六歳の嵐の一夜、見事だ。
結婚歴三回、華やかな氏の女性遍歴の初陣を垣間見る一編だ。
十五歳だから、まだ宮中放校処分の前、この彼女は宮崎の女性だろう。

まさにセンダンは双葉よりカンバシと期待したいところだが、その点では、ガックリくる。
女性遍歴どころか、「女性」を扱ったものさえこれ以外はゼロなのだ。

死の直前まで詩作成者としてもまた詩集出版社「詩学」の経営者としても辣腕をふるった方、
様々な逸話が沢山の方々に語られているが、今回は誰にも語られていない、
自身も決して漏らされることのなかった氏の女性遍歴の一コマを、書いておきたい。

というのもあまりにたびたびその話しをされたからだ。
書き残して欲しいということでもあったのではないか?

<中略>

二十一歳で当時は発足間もない文藝春秋社に入社、
菊池寛に従って若手作家の育成に驀進された。
「これからは宣伝の時代だ。ガンガン写真をとってまずお前たちを有名にしたい。」
菊池寛が、ある日カメラマンを引き連れてきて、こうのたまうと、芥川龍之介が興奮、
突然下駄のままで近くの松の木に、駆け上って「さあ、撮れ、今、俺をとれ!」 と叫んだ……。

<中略>

詩はどこをさまよい歩くのか
自分に帰るために、自分から遠ざかるために…」
    (詩集『開かれる日、閉ざされる日』)

 
 
福岡の詩人兼評論家の樋口伸子さんが「シャイな遅咲きの詩人」と題して嵯峨信之を論じた評の冒頭である。
ヨーロッパ翻訳ものを中心に書評にエッセイに健筆をふるう樋口伸子氏、
悠揚迫まらぬ穏やかな筆致のなかに、含羞の人、嵯峨信之の姿がほいっとあらわれ、それから怒ったようにそっぽを向く。

なぜそっぽを向くのか?
なぜ口をへの字に曲げて、一言も発しないのか?
照れているのか?「自分から遠ざか」りたいのか?
それだけではないと思う。そこにそのあたりに彼の秘密、彼が死守する秘密があったり、ではなかったか。


(2008年7月、樋口氏と。富津にて)

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あまりにも、あまりにも(悪人正機の悪悪悪)6

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◆悪人とは何か?

殺傷は厳禁の仏教国としては、まずは人を殺す武士、
つぎに魚を穫る漁師、山で獣を狩る猟師、
ほか遊女などが悪人となるだろうし、
また魚を料理する主婦、料理人などもまた悪人となる……

結局、ほとんどの一般庶民は悪人。
みんなしていずれは地獄行きと観念していたのではないか?
ところがその悪人こそが極楽往生するというのだから、
法然教理、まさに国中を驚喜させたわけで、
それも念仏、「南無阿弥陀仏」この6文字唱えるだけでいい、
僧侶へのお布施も必要はない、というから
良いこと尽くし、あっという間に全国に広がった。

今、念仏というと坊様以外では、
世ほどに年取った爺さん婆さんが、
ブツブツモソモソ……のイメージしか湧かないのだが、
この当時は老いも若きもひたすら念仏。
法然弟子の安楽など大変な美形でもあったので、
熱狂的な若い女性達にかこまれての念仏。
目下のロックスター並の人気ぶり。

都大路で時ならぬ渋滞、皆驚いて何事か?と行ってみると
荷車引きの婆さんが法然様のお言葉を書き付けた紙切れをそこらに落としたとか。
大騒ぎでそこらじゅうを探しまくっていた……などなど。
まさに日本中が法然仏教に念仏に燃え上がったのだ。
 

◆善人たち

以上は当時の悪人たち、
法然から極楽を授かってはしゃぐ様をもかきそえたのだが、
ではその逆の善人は、だれか?
どこでどう暮らしているのか?

上記悪人たち、つまり
武士漁民猟師農民遊女以外が善人ということになるわけだが、
具体的には公家、高級官僚、僧侶……など。

彼らも無論、善人目指して修行、
極楽往生をおもっていたわけで、
たとえば公家なら広大場所領を寺に寄進したり、
また浩瀚な仏典をまなんだり……の様々の善行を積んでいたわけだが、
法然またその弟子親鸞はこの善人志願を悉く否定、非難するのである。

願海は二乗雑善中下の屍骸を宿さず。
いかにいはんや人天の虚仮邪偽の善業、
雑毒雑心の屍骸を宿さん。
(教行信証・行巻)

 

何でもを飲み込んで受け入れてくれる海でさえ、善人はうけいれない。
人が善行とおって行うの行為や、様々の思いも、嘘いつわりの仕業、
そういうものの、どうして受け入れることがあるだろうか?

善は見るもおぞましいそうい代物、海さえはじき出す汚さ。
いても立ってもいえられぬ程に我慢できない……
こういう思いが伝わって来そうな勢いである。
そして、親鸞にあっては、
そのおぞましい善人を具体的に名指してしまうのだ。

主上、臣下、法に背き、義に違ふ。忿をなし、怨みを結ぶ
(教行信証・化身土巻)

 

1207年の弾圧について、政府を糾弾するのだ。
天皇またその側近の臣下たち。
まことに明快である、当時に会って悪人正機とはなんであったのか?
悪人を善人より上位に置くということはどういうことであったのか?
悪人善人相互の身分を逆転しただけでなく、
貴賎の身分をも逆転してしまったのだ、

悪人を手本となし、善人まで摂す

 

上人伝は法然の言葉をこう記録している。
農民など庶民いわば下層階級である「悪人」が
王侯貴族など上層階級である「善人」を支配統率する……
と口語訳してみたがどうだろうか?

法然は一般庶民に向けてものを言う。
仏教世界での救済より摂政に意味で話した可能性が高い。
「摂」を摂政の意味として、口語訳をしてみたのだが、
こうなると正に、自由平等の民主主義である。
自由平等のフランス革命1794年より600年も前に
早々と平等とを民主主義を主張した者があったのだ。
法然とその弟子親鸞たち。
親鸞の浄土真宗にいたってはその実行を目指して戦ったのだ。

浄土真宗は又の名を一向宗。
一向一揆となって界隈一帯に広がり、
ついには織田信長に反抗、6万人の死者を出している。
信長に敗れ去ってはいるが、その昔、平等を目指し
主主義を夢見て勇気凛々戦ったものがあったことは、
誇ってもいいのではないか?

今はもう怖い信長はいないのだから、おそれることはない、
日本庶民といえば、ただもう権力者にはいつくばるだけ、
金を追うエコノミックアニマルはそのなれの果て、
今度は金に這いつくばるとの評判もこれで払拭できるのではないか?

イデオロギーもなし、神も思想もないとされる日本国だが、
ここにはイデオロギーを排撃を言う思想がある、
イデオロギーの根幹をなすはすの正義、良心等等を
断固切り捨てる思想がこの私たちの奥でうごいているのだ。

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醜悪な精神3「美しい精神」

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明恵とヒトラー


 

京都栂尾高山寺
恋につかれた女が一人、
大島つむぎにつづれ帯が
影を落とした石だたみ
京都とがのお、高山寺
恋につかれた女が一人、

 

これは、かってヒット曲。
永六輔作詞「女ひとり」
ゆったり長閑な曲、
うっとりいい気分でつい口ずさんでしまう、
明恵のゆえか?

高山寺は、高僧明恵の寺。
高徳のホマレ、高きにも高く、
高山寺自体も標高はけっこうあるのに
それでも足りないとして、いちいち
裏山の木の上に座ってる絵図が残っている。

明恵

時は鎌倉、
名君、北条泰時制定の貞永式目は
明恵の影響下に作成されたとされる。
政治理念にまで採用された倫理思想を生み出した人物、
権勢と並びなく、かつ心優しい人としても
様々も逸話が残されている。

仏様を「お父さん」と呼び、
タツノオトシゴだか、小さい虫だとかまでかわいがっていたとか、
親鸞のように「女」に走ることもなく、
せいぜい飴桶を抱えて飴をなめる程度であったらしい。
安全無害、これぞ聖人正に善人タイプ。
誰もが100%好きになるタイプではないだろうか?

ここまでの清廉潔癖となる日本にはなかなかいない。
ヨーロッパまで目を向けて、
近くは、議会で99%という脅威的なまでの
信頼をキャッチしたヒトラーくらいか?

幼き日は無論のこと学生時代も同じ、
下宿先ではあまりの生真面目に周辺を驚かせていた。
女性といえば、ただ一人、母上だけ、
乳ガン死の母上を慟哭、
あまりの激しさに、医師は奇異な印象をうけたほどだ。
(ここに知られざるヒトラーの秘密が隠されているのだが)

さて、話は東洋日本国、
この優しいこの明恵が
法然に牙を剥いたのである、
まさに阿修羅のごとく、狂ったように
法然を罵倒しまくったのだ。
 

汝は即ち畜生のごとし、また是れ業障深重の人なり
『摧邪輪』
 
近代法滅の主、雅のこれ汝をもって張本となす
『摧邪輪荘厳記』

 

まず『摧邪輪』、
翌年には『摧邪輪荘厳記』立て続けに2冊。
本タイトルは「サイジャリン」と読む。
「摧(ザイ)」が砕くという意味だから、邪悪を砕くという意味。

だがミイラ取りがミイラ、
むしろ書き手の明恵の邪悪がモロだしになってしまっている。

正に選択集の「内部と外相」である。
外側があまりに善良であるだけに、
明恵が内部に押し隠した諸々の邪悪、
攻撃心やら嫉妬やら、が凄まじいまでに極大化してして、
外側に暴発、法然に火となって噴出したかと思われる。

 
 

清浄心


 

法然罵倒が目的ながら、長々しい大冊、
それだけで埋まらないわけで、
法然拝む代わりにこれ拝めということか?
菩提心、これがポイント。

 
「浄らかな心もしくは煩悩にけがれていない心とは菩提心である」
 

摧邪輪で明恵はこう説明しているが、
清浄心とも言っている。
正義、良心の類か?

結局このあたりもヒトラーに通じていくわけで、
清廉だの正義あの、ひとりしっかり実践すればいいものを、
ヒトラーもまた、これがなにより大事と、がんがん演説、
大勢の人々を魅了してしまうのだ。
 
「普遍的正義」
 
これを正に力の限り喋りまくり、吠えまくり……
一時期にはドイツだけにとどまらず、
英国人やユダヤ人までファンは広がっていった。

正義の仕事は悪の征伐。
明恵の場合は「悪」は法然。
法然一人を攻撃すればよかったが、
ヒトラー場合は「悪」はユダヤ人。
ユダヤ人は数が多いので、大惨事となってしまった。

けれどそのもとは、正義、良心、清廉、清浄……なのだから、
ヒトラーを嫌うわけにはいかないのか、
どこまでもヒトラーを慕い続けて
どんづまり隠れ家の地下壕まで、
臣下は随行、恋人は共に自爆の道を歩んでしまう。
ヒトラー、ここまで真剣に愛された政治家はいないのではないか?

いったいナチ帝国とは何だったのか?
至純無垢な男が作った正義の国、
正確には、自分は至純無垢と確信する男、
作ろうとした理想の帝国ではなかったか?

そして思うのだが、ヒトラーと明恵、
双方、心のなかは正義だけ、
悪心はかけらも排除して生き続けた人、
行き続けたつもりの人ではなかったか。

そして思うに、だから思うに、
正義とは、また清浄とは
恐ろしいものはないのではないだろうか?
(続く)

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醜悪な精神2「リチャード・ドーキンス」

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とタラタラ続けてきて、ここに来てハタっと思い出したのが、
遺伝学者リチャード・ドーキンス先生。

ご存じ二重螺旋の発見者、
今世紀最大の発見を成し遂げたとされる人だが、
この人にあっては上記のようなタラタラは許されない。
このバカタレと怒鳴られだろう。
刹那だって?一瞬だって?
馬鹿抜かすな、ごまかすな、ってことになるだろう。

事は毎日毎日なのである、
毎日毎日、人たるもの醜悪で一貫しているとおっしゃるのだ。
つまり、あちら様は科学者、
古来より今まで、長々と、かつ、あちらもこちらも広範囲に広々と、
一貫して共通して流れるヒトたる者の定則を
取り出されて醜悪の精神をおっしゃるのだ。

頭のテッペンから足の爪の隅々まで、
細胞の1つ1つも例外なく、かつ話は遺伝子世界だから、
その寿命も億年万年を生きるミトコンドリアのレベル、
億年万年長々と悪の精神一本槍。
強きになびき、弱きをくじき、弱きをいじめ、
弱きを倒し、弱きを食って、弱きを食い散らして……
こうして生き残った悪のエリートというのだ。

ゲンジツはキビシイ。
生き残るにはこれしかなかった……
というとちょい惨めったらしい話にもなるのだけれど、
エリートと言うあたりはポイント、
誉められている気もするから、
このあたりで、気をよくしてもいいかもしれないが、
この外にもう1つ、美貌との関連だ。

ドーキンス写真
ドーキンスの若き日の顔写真。
彼の発見はともかく、彼の論理のほうは当然ながら、
非難ゴウゴウ、あっちにもこっちにも嫌われたためか、
それこれあちこちに反駁文を書きまくり、
目下はパッとしない爺さん顔が出回っているが、
若き日を見るならまさにニュートン以来の美貌ではないか?

「真なるものは簡明だ」

 

昨今、大発展を遂げた物理学の世界。
学者たちは複雑怪奇な数式をあれやこれや書き連ねたあげくにある日、
奇妙に簡単な短い数式にぶち当たり、ふと漏らすのがこのセリフ。

これにもう1つ、発見者ドーキンスの美貌に
あやかって加えてもいいのではないか?

「真なるものは美しきかな」

 

その正確かつくわしい理由は後回し、後でゆっくり考えるとして、
まずはドーキンスの美しきカンバセを心に留めておいていただきたい。

つまり、神尾和寿詩編、醜悪なる精神の
グラマラス軍団を美女集団と見たのは、1つにはここからだ。
「悪」が基本形。
基本を隠さずモロだしにする、簡明なるは、真。
真なるものは美しい。よって醜悪なる者は美しいのだ。
(これも変?変なるものは美しきかな?)
 
 

悪人正機説


 

イカレた事をいいだすのはその昔からイギリスのお家芸。
ヒト=醜悪なんぞ厄介かつ不快は
たとえ真実そう思っていても普通は言わないもの。
英国人となると、それをまた臆面もなく大声上げて、世界に向けて喚き散らす。

ローリング・ストーンズやらセックス・ピストルやら、
悪玉系ロックアーチストの元気な方々を見るに
この奇妙な論理も英国専売特許かと思われるだろうが、これは違う。

その歴史的な古さから見ると、我がジャパン国。
なんと1300年代の鎌倉時代、法然と親鸞の悪人正機説。
この二人が、まずはガンガン喚き出したのだ。

奇妙な論理だから、実は逆説なり……とかややこしい解説をいう人も多いが、
なんせ単純明快、簡単安直をモットーとする法然と親鸞、
これはもう単純に、「悪人は正機」
つまり「悪人は正しい」と解釈するしかないだろう。
つまり醜悪なる者は正しいのだ。

法然か親鸞か。
どちらが先にこれを唱えたか?
いままでは親鸞の説と見られていたが、
より古い法然の関連文書が出てきたため、最近は法然の説が有力。
私から見ると、これは資料あるなし関係なしに法然。
親鸞は師の説はちとおかしいとたとえ思っても、
ひたすら正しいと盲信して、
師の説を広めんとして、喋っていたかと思われる。

なぜかそう言うのか?
悪人の方が善人よりただしい理由を親鸞はカケラも書いていないからだ。

親鸞は晩年にあっと驚く大冊、教行信証を執筆。
これだけあれば何処かにはあるだろうと
しつこい私は目をサラにして探したが見つからない。

親鸞は書きたくとも書けなかった。
実は親鸞、その理由がわからなかったのではないか?
なぜ善人より、悪人の方が正しいのか、分からなかったのではないか?

かたや法然、
抜群の頭脳とされながら著書はわずか。
そのわずかの中の1冊選択集にスバリ、その理由を書いている。

謂はく外相と内心の不調の意なり。
即ちこれ外は智、内は愚なり。
善とは悪に対するに辞なり。
謂はく外はこれ善、内は即ち悪なり
(前掲『選択本願念仏宗』)

 

私たちの内心と外面は違う。
同じには動かない。
外見が知恵者のように見える人は、その中身は愚かであったり逆に動く。

善と悪はただ単純に相対する言葉にすぎないもの。
(それぞれに固有の実体を持つものではない。
 元は一つのもの。
 1つのものがこの相対する2つの性格を同時に持っている)

だから外側に善がでている時は、
内側つまり心の内部にはその逆の悪が出る。
つまり善人と見える人の内部はドロドロの悪で満ちている。
悪人はこの逆。
内部には「善」が詰まっている。
外見はどうあろうと内心は美しき人なのだ。

カッコ内は個人的補足、
やや詳しく口語訳を試みたが、ここで、さてどちらのタイプがいいのか?である。
悪モロだしと悪の隠蔽と、どちらの方が正しいか?
法然は前者、悪人を選択するのである。
悪モロだしの悪人の方がいい。
悪人の方が正機である……こう断定したのだ。

以上、
一種、深層心理学である。
目下はフロイト、ユングが席巻。
外部に吐き出された言葉を信じる者はいない。
言葉の世界、モロモロの哲学論理もすっかり意気消沈、
ロゴス殿は地に落ちてしまった。

言葉ではなく、その裏を探る。
問題は内部。言葉はその内部を探るヒントでしかない。
これが現代。つまり法然セリフでいうなら、外相ではなく、内心。
内心を注目する。
はるか昔、心理学もない700年も昔の親鸞が
解読できなかったのも無理はない。

しかし法然は別、
法然だけは悪人正機の理由を明快に記述、
ついては神尾詩編に登場の醜悪精神モロだしグラマラス女性軍団を
美貌の理由をも鮮やかに明示するのだ。

「醜悪なるものは正しい。正しいものは美しい」

 

法然の選択集は出版されたのはずっと後になるが、
それまでは高弟にだけ配布、門外不出となっていたもの。
何事もお見通しの法然は出版したらどうなるか、
それをしっかり予見されていたわけで、
出版されるやいなや非難ゴウゴウ、
あちこちから総スカンを食ってしまった。
その一番は明恵。

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醜悪な精神

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健全な精神というのはよく聞く言葉だが、
醜悪な精神というのはきいたことがない。
空飛ぶキリン社刊『ガーネット』78号の、神尾和寿詩篇の2編は、
そのあまりなじみのない精神を書いて出色。

夜のお店で考えてみる


 
はち切れそうな肉体に
醜悪な精神が宿っている
そのようなくみあわせのいきものたちに
囲まれて、
さっきから息をだしいれしている私とは
誰なのか
オッパイが弾丸のように躍動しながら
容赦なく迫ってくる
その間に挟まれた頭を
ひねりながら
もう一度よーく考えてみる

 

状況は簡単ではないらしい。
官能的なようで見えて、イヤ、まて、
頭をひねって考えなきゃいけない、となると
早々いい気分にはなれないものの、けれど
「醜悪な精神」というのはいい。
そして「はちきれそうな肉体」!
もうこれは何よりだ。

グラマラスな女性軍団で、悪知恵満載というなら、
それはもう特上美人に決まってる。
そういう美女軍団に頭を挟まれる……
なんてどういう事情であれ、滅多にない果報者ではないか。

まずは醜悪な精神がポイント
グラマラスでも善良な精神となるとこうはいかない。
その手の女もおおむねは腑抜けで阿呆。
ドロンとしてだらけたのが多い。

普通、詩に登場するのは、こっち、善男善女。
皆して腑抜けでドロンとだらけている。
こういう人間ばかり見てるとこっちまでドロロン、ドロロンしてきて健康上にも良くない。
神尾詩編は詩が生気をキャッチ、
ぱっちり目覚めた瞬間を活写している。
これが見事だ。健康にもいい。
そしてもう1編。

フライパン


 
みんなに隠してきたぼくの
裸をきみにだけは見てほしい
ぱっと
脱いだ
ポーズを決めたあとで
(後略)

 

これもビックリ、ハテ何事か?と目が点になる。
フランス映画ではなかったか?
……整備された広々の公園、
口髭紳士がやおらコートを脱ぐと、中は素っ裸、
それを小さな子供達が黙って眺めている……こういうシーンがあったような気がする。
漫画だったかな?

どこにでもあることなのか、
千葉県は市川市、かっての我が家の近所でも類似のことがあり、話題をさらった。
頭は七三に分けて黒縁メガネ、それはそれは真面目な息子さんなのだが、
ある昼下がり近所界隈を次々訪問、
玄関先で、パラリと全裸となられて、「見て、見て」と秘めたる部分を、提示されたのだ。

奥様方はびっくり仰天、
キャアキャアまさにキャアッキャア、
辺り一帯は大騒ぎ、常日頃は眠ったような界隈がやたら活気づいた事があった。

三島由紀夫みたいに日頃ボデイビルで鍛えあげた身体ならいいが、
この詩編の主人公はその肉体を長年秘めてきたそうだから、
おそらくは脂身タップリの真っ白けでブヨブヨのはず、見よいものではあるまい。
 

プヨプヨおじさん
(その想像図として上にかかげたのは、私がハンドバッグに隠し持つカード入れの表紙。
 渋谷の雑貨店宇宙百貨で¥350で買ったものだが、このくらいの脂身か?)

美的とはなかなか言いにくいが
長年秘めて来たのだから、何らかの価値があるのだ。
彼一番の宝物だったり?
僕の宝は彼女の宝と、一人思い込んで、おそらは長年の憧れの君、
素敵な彼女に開陳なんて!なんとも健げでイジラシイではないか!

双方とも毎日毎日、それで一貫しているわけではない。
女性軍団だって毎日醜悪ではくたびれる。
全裸志望も同じ、
今日のような暖かな日ならともかく、
酷寒の日なんぞは、思いも寄らぬこと。

だが、ある一瞬の思い、刹那の衝動だからといって、
そうでないものより、価値なしとしてはいけない。
毎日毎日の長々ダラダラ思いより無価値とは、限らない。
それは我が身を活性化させるだけではない、
思いがけないものだってもたらしてくれる。

おなじみ世界の大富豪、ロスチャイルド氏は言う。
「肝腎なのは空中を舞っているもの、
 見えるか見えないかの小さな粒子だ、それを掴まえること。そこに全てがある」
氏のいうことだから話は金儲け。
金儲けの粒子のことか?

そういうものは、そこらに暢気に転がってるものではない、
よくよく注意して、刹那をキャッチしなければならない。
刹那の思いの方が、瞬時の衝動のほうが、より大事というのだ。
作者は古来より商人のまち神戸の詩人、神尾和寿氏。
皆で神尾氏を見習って大富豪を目指そう!(ちょっと変かな?)
 

リチャード・ドーキンス


 
とタラタラ続けてきて、ここに来てハタと思い出したのが、
遺伝学者リチャード・ドーキンス先生。

ご存じ二重螺旋の発見者、
今世紀最大の発見を成し遂げたとされる御方だが、
この人にあっては上記のようなタラタラは許されない。
このバカタレと怒鳴られだろう。

刹那だって?一瞬だって?
馬鹿抜かすな、ごまかすな、ってことになるだろう。
事は毎日毎日なのである。
毎日毎日、人たるもの醜悪で一貫しているとおっしゃるのだ。

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