イガイガボン

出版の(株)iga

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新刊『豚=0』10月14日(月)全国書店で販売開始!!

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イガイガボン・シリーズ第13弾、
『豚=0 博徒の論理』

今回はちょっと小型。
かわいい。
ハンドバッグにも入る。
だが
中味はそうそう簡単ではない。

冒頭「豚志向1」。
絢爛豪華だが、ひとすじ縄ではいかないのが、イガイガ本。
なぜこんなにも絢爛豪華に変貌するか!と驚く。
謎も多い。マントを着た紳士はいったい何者なのか???

後半、ふくよかな豚女性の突然の変貌。
その形相が凄まじい。
なぜ彼女は檻の中にいるのか?謎なのだ。

作画は、もも色の蛤(ハマグリ)。
エログロだと掲載反対もあったが、
ここまでの豚を描ける人はいない。

後半は副題「博徒の論理」
前作イガイガ本「民主主義の穴」で好評の阿賀猥。
女性読者からの熱烈賛同の声に答えての続編にあたる。

豚という生き物はやはり簡単ではない。

「豚=0」、

 池下和彦さんから感想をいただいた。
— 一切なにものにも囚われないふうの文章が圧倒的に好い。息をのむほどに好い。また文章から自由イラスト(画)が好い、すこぶる好い。なまじ下手ウマではなく、ウマウマのところが潔い。—

 ※ 小笠原真さんは、散文「イマセ」について。
ーー何がどうということもなく、浮世絵的なエロスを醸し出し、気がつけば呵々大笑、脳天がパクリと割れて、満点のお空にスターマインが炸裂しているのです。LSD的ドラッグ文学に通じると言っても過言ではありませんーーー

 ほか魅惑あふれる感想の数々。むしろ「豚=0」の現物より読み応えがあり、魅惑された。 猫又猫七もびっくりしていることだろう。
 
 ■裏話 
まずはもも色の蛤の挿絵が問題であった。初めに登場する※絢爛絵巻きの「豚志向」。
 何年も前に作成されたものだが、かくまでのエロエロ絵画は出版すべきではない、とスタッフ全員猛反対、ずーとお蔵入りになっていた。
 ならば北軽井沢イガイガランドの絵画展示場の天井に貼り付けようと※なったのだが、これではエロエロに押し潰されそうで怖い。 オッパイもかくまで大量にドカンドカンと垂れていては、大砲のようではないか!

 なんとかエロエロを誤魔化して、出版したいと思い立ち、阿賀猥の駄文、猫又猫七を担ぎ出してみた。猫又猫七の肖像画も添付するが、イガイガ本にはおなじみの連中である。


谷敏行(作画)


谷敏行(作画)

 猫七は険悪な顔をしているが、実は男前。ゆくゆくは若き辣腕女社長の花婿になる男で、常にコソッコソッと日陰を歩いているものの、寸分隙のない出で立ちのワル猫。裸踊りの名手。
 このワケ分からん2匹とモタモタしてるうちにもも色の蛤のエロさも忘れてもらう、という寸法だ.

◆悪猫
なぜ悪人びいきか? との質問もいただいた。

ーーー色んなことがありましたが、私は誰もが、 心底は善人であると信じています。

 これは、アンネ・フランク。
 アンネはアホだといいたいのではない。これは本当ではないだろうか? アル・カポネだって例外ではない。おれは善人だと言っている。
 ではどうしてあんなひどいことをやってしまうのか? そしてまた、どうしたらアンネは逃れられたのか?
 善人であってはいけないのでは? ドイツの人もアンネも善人であってはいけなかったのではないか? つまり、豚ではまずかったのではないか? 

 猫又猫七とまでは言わない、せめて猫であったら、と思う。それなら逃げられたのではないか?
 
 ?? ちとややこしい ??

 こういうのはインテリ猫、猫又の十八番だ。今度の時に猫又に聞いて欲しい。プレデイアス星雲随一の頭脳ともいわれた猫又だが、ここ限界古星地球でそれが通用するかどうか疑問である。
(2匹は遠方の星雲から帆かけ船でやってきたのだ)

 
◆ CD
 猫又猫七に関しては、「猫又猫七そして猫姫」というタイトルでのCDがある。これは肥満猫の猫姫を入れた3者の三角関係を描いた詩編をもとにした音楽伴奏つきの朗読CD。七月堂制作とイガイガ本制作と2種類ある。
 イガイガ本の方は、舞踏家十亀脩の介での朗読舞踏の公演からのもの。雄大な津軽の風景を背景に、津軽三味線奏者、疾風が作曲演奏、これが素晴らしい。

 録音制作は疾風の兄貴分吉田兄弟。単行本「猫姫」の付録として添付している。

 CDは以前は日本橋丸善で見かけた事があるが、だいぶ日がたっているので、入用の際はイガイガ本まで。


七月堂 制作


イガイガ本。吉田兄弟 制作

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妖精珍種1 細田妖精

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支倉隆子戯曲「洪水伝説」は、全国各地を公演。
もう11回目になるが、1回ごとに趣向を凝らして飽きさせない。

第11回・洪水伝説

富士吉田市の富士山駅から徒歩10分、
画廊兼喫茶店での公演では、最後にリレー詩、
数人が同じタイトル「妖精」で、1編ずつ朗読したが、
それぞれの妖精がそれなりの妖精で面白かった。
以下は細田傳造さんの「妖精」。

細田傳造「妖精」

この妖精は、マットヘルス駅前2号店のお嬢さんたち。
ヘルスの妖精たちを自宅に呼び込んでのらんちき騒ぎで、気を吐いている。
ちょいと手強そうな妖精だが、ひょいと消えてくれるところがいい。
ここが妖精の真骨頂だ。

奥さんはこうは行かない。
ガンとして消えない。
しぶとく長々と亭主をいじめ続けるのも多い。
だが、いじめてくれる女が皆無を言うのもちょい寂しいもの、で
ドカンと駅前ヘルスから借りてきたという算段だ。
こっちが案外やすあがりかもしれない。
 

詩といえばまずは悲劇。
ヨーロッパ上層階級の学問のながれの中を泳いできた西欧詩篇は、
深遠かつ高雅な古代ギリシア、ローマ文学がお手本。
目の前の事実は書かない、繁栄も書かない。
だから、こういう楽しい詩は珍しい。滅多にお目にかかれない。
18世紀マウンドビル以来か?
(というと大げさに聞こえるが、本当にこの類は見かけないのだ)
 
売り子
 

マウンドビル


マウンドビルの場合は、ぐっとえげつない。
あくどいまでの事実であり、とことんの繁栄、
うんざりするまでの繁栄である。
そこまで突き進む。
 
何せ長い、細田詩編の100倍くらいか?
延々と続くのだ。
次から次に事実が並び、繁栄はとことん極まって、
それでもあきずに、またその先へと進むのだ。
 

作者マウンドビルは本職は医者兼理髪師、
国籍はオランダだが、金満王国英国で大ヒット、我も我もと読まれた。
だが、しっかりした方々、上層のお歴々は怒りまくり、
特に教会。
しつこく長々と真ウドビルと攻撃、裁判提訴する……
キリスト教では贅沢と貪欲が悪徳、
そればかりを書きまくるのだから、始末に負えない悪書ということになる。
 
ところが、お歴々の中に一人、例外がいたわけで、
この例外人が、この延々たるなかから、不変不滅の経済理論を、掴み取るのだ。
 
ご存じ、グラスゴー大学の哲学教授アダム・スミスの「見えざる手」だ。

アダム・スミス

すでに「道徳情操論」で、大ヒット、
令名すざまじく、アカデミーに出向くと
会員総立ちで出迎えたという大物中の大物が
この悪徳詩編に熱狂、ここからあの長々しい、
あまりに長々しい「国富論」を書き始めたのだ。
 
とはいえマウドビルの方は、何かをつきつめようとして書いたわけではない。
面白くなって延々とただ延々とつづけたのではないか?

ふっと気がつくと期せずして、不変不滅の論理、「見えざる手」を浮上させていたのだ。
 
えてして思った所には行かない。
時としてとんでもないところに行く。
 
これまた見えざる手であるが、
悪徳が善なる世界を築いていく様をありありと、
誰でも見える形で書き連ねたのだ。

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神的品格、吉田ゆき子詩集

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3月30日、新潟から斉藤健一さんが吉田さん宅に来られるというので、私も出かけた。
斉藤さんは、気に入った詩集があると、作者を訪問される。詩の背景をじかに見たくなられるのだろう。

生憎の冬。庭木は殆ど花どころか葉もつけてないので、いかにもパッとしないのを気にして吉田さんは、あっちこっちうろうろ、裏庭やらゴミ置き場まで、いよいよパッとしないところへ。
「ああ、本当に、今はなにもありませんねえ」とため息。
じきにこの裏庭にも丹精された花々が咲き競うのだろうが今はなし。
いかにも「ぶきっちょ」な吉田さんらしい案内だ。
 

『鼓膜の内外』吉田ゆき子 思潮社

鼓膜の内外

問題の吉田詩集は「鼓膜の内外」。
以下は冒頭にある短詩

 


 
 神の手料理


          吉田ゆき子
 
臓物を火で炙った
お互いに
それを料理ととてもいえないが
わたしらはそれで
実をつけたのではないか
ぶきっちょな実であるが
 
生きることが
料理なんておこがましいが
わたしらは皿に盛られる
神の料理として

 

これだけが短いので、全文を書き写した。
どの詩編も不思議な静けさと暖かさを湛えて、けれどきっかりと30編が続く。
この毎日は私たちの日常のようで、実は神様の手料理、と視界をぱっと天の神様レベルまで、もっていって、しめくくる『神の手料理」、人の日常だのは、その程度のものでしかない、という意味あいもあるだろう。
だが、人の手を省かれて、機械だけで、大量に量産されるこのオートメーションの時代に、神様に手をかけてもらえるなんてすばらしいことではないだろうか?

どの日常も、さほどに輝くようなものでもなく、立派なもの、はないのだけれど、不思議に神様の手料理になっているのではないか?
神様が作られたような、尋常でないある品格を持った世界、それが白い小さな詩集の中から、1つ1つ、くっきりと確かに立ち上がってくる。

神的品格とでもいうのか、こういう品格を持ったものは、最近すくない。
かっては森鷗外。
どのページをめくってもめくっても、変哲もない静かさが続いて、結局どの作品も変わらないのだが、なぜか次から次に買い足して読み続けた。
友人にも鷗外ファンが多かった。
これがないと落ち着かない……と終始本と言えば鷗外だけ、読み続けていた人もいた。

実際の作者の日常は、そうそう静かなはずはない、鴎外にしろ吉田さんにしろ、動転し四苦八苦の毎日だってあっただろう。
 
 

木を伐る事に
なりました
 
わたしの 中に
ずっと 価値観 を
根深く 張って いたの ですが
今日 伐る 事になりました

 

こうして始まる。
その日常で、自分自身を根こそぎ、刈り取らざるを得ない何らかの挫折または大きな絶望があったのだろう。
短い区切りで、トツトツと続く、その区切り方に、多すぎる空白に、事の重大さが伺える。
だがその事の内容には、一切、ふれられないままに淡々と続き、以下で終わる。
 
 

さて植木職人のスコップは
頼もしく作業を始め
木はどっどっと
倒れたのでした

 

簡単なものではなかったのだ。
大事な大事な世界だったのだ。
一番大事なものだったのだ……。

タイトルは「木を伐ることに なりました」、見事なタイトル。
生涯でそうそう出あうことのない珠玉の詩集。
この浮薄な平成に、こういう詩集が誕生したのが奇跡のようにさえ思われる。
 
   ※引用は、「鼓膜の内外」(思潮社/¥2200)から。

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『大菩薩峠』と芥川龍之介

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今回の『ドラゴンin the Sea』の下巻にその発言をそのまま引用、掲載したが、芥川龍之介は『大菩薩峠』をあまたの文学書を差し置いて屹立する大傑作との
言葉を残している。
すべてが消える、大菩薩峠以外は残らないとも言ったそうである。
芥川の師、漱石も消えるのか? 鴎外も消えるのか?

介山は、これらの文学がよってたつ国家治安を許せなかったのではないか?
かれらの文学が希求する国家安寧と平穏をあくまで許す事ができなかった中里介山、彼の芯の部分が治安維持法、この法案の裏から透けてみえてくる。
治安を乱すために、介山は刺客机竜之介を、作り出したのだ。こういう形で治安維持法に対決したのだ。

tanizaki「改造」連載の中里作品『夢殿』は、谷崎潤一郎に絶賛された事でも有名である。
だが中里は、これを歯牙にもかけず無視、あたかも唾棄すべきもののように、対応している。敵は本能寺、治安維持法である、文壇の治安など、どうでもよかったのだろうが。

芥川の中里以外はすべてが消えるとの発言、最晩年の発言だけに気になるが、同時期に執筆された芥川の評論のどこにも類似の発言は見つけることはできなかった。
彼自身で記述したものの中にはないのかもしれない。
最後の評論『文芸的な、余りに文芸的な・・・』には、大衆文学としての項目はあるものの、わずか4行。取るに足らないもの、言う必要もないとでもいうような、書きぶりである。だが、なぜそのタイトル、「文学」ではなく「文芸」としたのか?
なぜ『文学的な、あまりに文学的な…』ではないのか?
大菩薩峠はどうなのか。『大菩薩峠』、これなら文学となるのではないか?

akutagawa自身の文学は単に「芸」でしかない。中里以外の全ての著作、自身の労作のすべても、単に『芸』として、いずれは消え去る・・・こういう思いが芥川をよぎったりはしなかったか?

谷崎潤一郎の絶賛を、唾棄すべきものとして、侮蔑をもって答えた介山である。
芥川身の作品の数々もまた、取るに足らないものとして、侮蔑の一閃で、却下……となるのは、必定だろう。
谷崎のもと、あるいは漱石の翼の下に生き続けてきた芥川、治安の側で、治安の翼の下に、ぬくぬくとしてあった自身の文学を、同じく唾棄すべきものとして、より一層唾棄すべきものとして、裁断を迫られたのではないか?
こういう危惧が、芥川を自死へと追い込んでいった……とか。

たかが新聞連載の大衆小説といってしまえば、それで終わる。
だが、図書館に真っ黒い手垢をつけた大菩薩峠が、それこそ、ところによっては数種類、並べられているのを見るたび、芥川の言葉を思う。
 
 
 
 
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正宗白鳥と文化勲章

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今回、イガイガ本、ドラゴン下巻については、たくさんのカンパをいただいた。
中でも石川逸子著「オサヒト覚え書き」(¥3800一葉社)は圧巻。
延々925ページ、1000ページに迫る大著。
「歴史から消されようした」重大な事件の数々をしっかり掘りあげて丁寧に詳述した力作。
たとえば江華島事件。
西郷隆盛の朝鮮征伐の話は、小耳にはさんだことはあるが、全容を詳述、驚かされた。
過去の様々の歴上の事件は洗い直しを迫られることだろう。
明治維新だって全く別様の事件として浮上するのではないか?

掘り起こしたということでは、ドラゴンも共通する面があるかもしれないが、幸徳秋水、小林多喜二を死へと追いこんだ大逆事件などは、いまだ全容は闇の中、最近になってようやく、これら法案の犠牲者の遺族が裁判勝訴、無罪判決を獲得し始めているので、これからは、変わっていくかもしれないが、ドラゴンではそのままに通り過ぎている。

ところが、こういうオオゴトが起こったに関わらず、これら一切に無関心のままに平然と生きた人もいたわけで、これが正宗白鳥。
明治から大正昭和の長きに渡って文壇に隠然たる勢力を持った正宗白鳥だが、最晩年はどういうわけか、治安破りの戯曲や小説を大量作成している……
とはいっても刀振り回すのいではなくて、グニャリくにゃくにゃになることで、「治安」などなし崩しに消していくのだ。

「大菩薩峠」のような大衆文学とは違って、純文学では、早々簡単に治安破りはできないが、正宗白鳥は別。
治安なんか、知ったことかの不埒な作品を書きまくっている。
インテリ風の主人公たちが簡単にコロコロと殺人を犯して進行。
無差別殺人というか、動機がない事件が起こしていく。
日常茶飯に殺人が、織り込まれていくわけで、これは大菩薩峠とおなじく、実際にはありえないとしても、なぜか、こちらの方がより真実に近い気がする。

不条理殺人といえばドストエーフスキー『罪と罰』やカミュ『異邦人』。
双方、その動機についても作中で長々と語られるのだが、白鳥作品は、そういう説明の一切がない。
あたかも、蚊でも殺された程度のわずかな波動で、「殺人」が登場していく。
犯人は、ごくごくの普通人。
経済的な面でも、ほかも面でも、きわめて安定した位置にある人物。
長年の日常をそつなくこなし、この安定した地位を得てきたのだろうが、そういう彼らがいちどきにパッパッと全てを捨ててを凶行に及ぶのだ。

長年の平穏が隠し持った不穏、彼らの上をゆったりと流れた「平安」、その平安が押さえ込んでいた殺意が、これこそが「平穏」なり、「平安」なり、とでも言わんばかりに平然と何の断りもなく登場、そしてまた、そういう奇怪な挿入を経て、日常が再び平然と稼働していく。

同時期の作品群、たとえば「老人部屋」など、いよいよ白鳥も耄碌か?と
それはもうとんだ悪評で文壇をにぎわせていた時期の作。
これ又悪評かと思っていたが、ただ一人、川端康成は別。徹底的な絶賛を書き残している。

正宗白鳥この白鳥は晩年、文化勲章を受賞したのだが、問題はその後。
その勲章が東京駅のゴミ箱から出てきて、大騒ぎになった。
それなりの事情があったということで、落ち着いたようだけれど、白鳥はやはりで捨てたのではないか?
ひどく小柄な人、老齢かつ元々病弱、小田原だったか大磯だったかの彼の自宅まではかなりの距離。
運ぶのは難儀で、ついごみ箱へポイ!

白鳥は読売新聞に勤務、長年にわたり健筆をふるった人なので、受賞に際しては大々的に5段ぬきで、感想を書いているが、それがまあ、何とも書いてないというか、さっぱりと感動のカケラもない。
ありがたいだの、嬉しいだの、まして陛下の言葉に感激など、一切がゼロ。
こういう対応の人、珍しいのではないか?
文化勲章ならずとも、天皇からいただいたものをたちどころに処分、という人は、珍しいだろう。

「天皇制反対など、騒いでいる人たちは実は、大丈夫なのだ。こういう人たちは、この制度を評価しているから騒ぐのだ。これに反して全く無関心な人がいる。こういう人たちが増えると天皇制はなくなるだろう。天皇制の本当の敵はこういう人たちなのだ……」

うろ覚えなのだけれど、どこかで昭和天皇が、天皇制について、こう漏らされた由、親しく接見した人が書いていた。

正宗白鳥、最晩年の戯曲は川端康成が激賞してことでも知られ、最近まで上演されたりしているが、無関心人間というの、一見弱そうだが白鳥みたいに、意外に強靭、時代を超え、制度を無視して、しぶとく生き抜いていくのかもしれない。

まじめが良いか、でたらめ無関心、めちゃくちゃグニャグニャの無節操がいいのか、まことに、どうしていいかわからないものである。
 
 
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