イガイガボン

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Archive for the ‘親鸞’ tag

あまりにも、あまりにも(悪人正機の悪悪悪)7

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◆ソ連マルキシズム

万民平等を実現させたのかもしれないが、
処刑者数は1000万人以上と推定されている。
誰もがたたえる正しい思想であったずが、正しければ殺してもいいのか?

ナチスの思想も同じ、良心が起点。
よき社会。清浄な社会を目指し、
清浄でない者たちの殲滅を目指した。
600万人のユダヤ人を殺害している。
おびただしい殺人と底知れぬ不幸、
法然は、600年700年先の私たちの不幸が見えていたのではないか?
 

◆あまりにもあまりにもの悪人

悪人正機は人間みな悪人、これが前提である。
ともあれ悪人、万事悪人が法然教説である。
悪人でなければはなしにならない。
あまりにもあまりにもの悪人づくし何が分からないといって、
これが合点いかない人も多いのではないか?

仏教流に殺傷厳禁といっても、
最近はほとんどの人が殺傷とは無縁に暮らせるようになった。
殺すとしても蚊程度か?
一億総善人化、めでたいことである。
だが法然、親鸞に言わせるとめでたいどころではないのだ。
私たちは皆、見るもおぞましいものになっているということだ。

自身を見抜く感性なしの鈍感人間。
見抜いたとしてもそ知らぬふりで善人を装う卑劣漢。
つまり嘘つき……こういうのがゾロリ一億。
ああ、こんなことではいずれ災厄が……と怖がった方がいいのかもしれない。

言うな喋るなと制止される中を
法然は、いや、たとえこれで死刑になったとしても
これだけは言っておきたい……こう言ったとある。
災厄を防止したいとのおもいからではなかったか。
何か遠い私たちの未来に起こる災厄の根のようなものをみていたのではないか?

まずは「人は悪人」。
これは元々は中国は6世紀の人。
仏僧善導が言い出したこと。
私は悪人なりと、徹頭徹尾の悪人なり、と
終始わめき立てたてていたのだ。

善導にかかるとあれをしてもこれをしても悪人となるわけで、
女などは見ただけでもいけないのである。
こんな馬鹿者は中国広しといえど誰も相手にしないわけで、
宗派を作ることもなくて生涯を終えたのであるが、
こんな男に一人寄っていった者がある。
それが本邦日本国の法然。
なぜか?なぜそんな変わり者にひかれたのか?

彼もまた悪人だったからだ。
生まれたときからの生粋の悪人だったからだ。
容貌は親鸞の逆。
福徳円満、終始ほほえんでおられたらしい。
だが内心はどうだったのか?

彼は今で言うと兵庫県の出身。
横領子の息子。
5歳の時に父親を面前で斬殺されている。
下手人は何のとがめも受けてはいない。
父親は、悪人として断罪、処分されやということか?
仏門にはいるが、父を殺めた者たちへの
怒りと恨みは、瞬時も消えるはずはない。

「善人なおもて往生……」。
まずなにはともあれ、この父親を成仏させなければならなかった。
苦しんでいる極悪心重の人をまずは一番に往生させたい、
法然の悲願でもあっただろう。

そしてこの「悪」、
父から子へと連なる悪、懐かしくも捨てがたい悪は、
20世紀末、おそらくは法然の思うようなかたちで、しっかりと浮上してくる。
 

◆DNA、二重螺旋の発見

ユダヤ人科学者ロザリンド・フランクリンは、
私たちの細胞の中の核の中に、2つのリボンが絡み合う美しい螺旋を撮影、
それを垣間見た英国ケンブリッジ大学のワトソンとクリックは、
論文発表、二重螺旋DNAの発見者として、1962年ノーベル賞を受賞する。

引き続いて1976年には、
同じ英国人オクスフォード大学リチャード・ドーキンスが、
この螺旋を解析して「利己的遺伝子」を刊行、
遺伝子の全てがひたすらどん欲に自身の増大を目指していること、
ただひたすらの悪であることを明示、世界的なベストセラーとなったのだ。

ひたすらの悪、あまりにもあまりにもの悪である。
私たちを構成する細胞は一人約60兆個と推測されている、
その1つ1つが持つ二重螺旋の中の遺伝子は約22000個といわれている。
その気の遠くなるまでの数でありなから、そこには悪の遺伝子だけ。
「善」はなかったのだ。

紀元前の5世紀、今から2500年前、真善美をいうソクラテス。
あたかも腹の中にどかんと善を漬け込んでいるかのように善をひたすらの善を繰り返す。
それにならってプラトン、またまたそれに習って延々と善を言う人々は続き、
マルクスにヒトラーに、フーコーにと、こうしてヨーロッパを作り上げてきた。
だが、善はなかったのだ。

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あまりにも、あまりにも(悪人正機の悪悪悪)6

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◆悪人とは何か?

殺傷は厳禁の仏教国としては、まずは人を殺す武士、
つぎに魚を穫る漁師、山で獣を狩る猟師、
ほか遊女などが悪人となるだろうし、
また魚を料理する主婦、料理人などもまた悪人となる……

結局、ほとんどの一般庶民は悪人。
みんなしていずれは地獄行きと観念していたのではないか?
ところがその悪人こそが極楽往生するというのだから、
法然教理、まさに国中を驚喜させたわけで、
それも念仏、「南無阿弥陀仏」この6文字唱えるだけでいい、
僧侶へのお布施も必要はない、というから
良いこと尽くし、あっという間に全国に広がった。

今、念仏というと坊様以外では、
世ほどに年取った爺さん婆さんが、
ブツブツモソモソ……のイメージしか湧かないのだが、
この当時は老いも若きもひたすら念仏。
法然弟子の安楽など大変な美形でもあったので、
熱狂的な若い女性達にかこまれての念仏。
目下のロックスター並の人気ぶり。

都大路で時ならぬ渋滞、皆驚いて何事か?と行ってみると
荷車引きの婆さんが法然様のお言葉を書き付けた紙切れをそこらに落としたとか。
大騒ぎでそこらじゅうを探しまくっていた……などなど。
まさに日本中が法然仏教に念仏に燃え上がったのだ。
 

◆善人たち

以上は当時の悪人たち、
法然から極楽を授かってはしゃぐ様をもかきそえたのだが、
ではその逆の善人は、だれか?
どこでどう暮らしているのか?

上記悪人たち、つまり
武士漁民猟師農民遊女以外が善人ということになるわけだが、
具体的には公家、高級官僚、僧侶……など。

彼らも無論、善人目指して修行、
極楽往生をおもっていたわけで、
たとえば公家なら広大場所領を寺に寄進したり、
また浩瀚な仏典をまなんだり……の様々の善行を積んでいたわけだが、
法然またその弟子親鸞はこの善人志願を悉く否定、非難するのである。

願海は二乗雑善中下の屍骸を宿さず。
いかにいはんや人天の虚仮邪偽の善業、
雑毒雑心の屍骸を宿さん。
(教行信証・行巻)

 

何でもを飲み込んで受け入れてくれる海でさえ、善人はうけいれない。
人が善行とおって行うの行為や、様々の思いも、嘘いつわりの仕業、
そういうものの、どうして受け入れることがあるだろうか?

善は見るもおぞましいそうい代物、海さえはじき出す汚さ。
いても立ってもいえられぬ程に我慢できない……
こういう思いが伝わって来そうな勢いである。
そして、親鸞にあっては、
そのおぞましい善人を具体的に名指してしまうのだ。

主上、臣下、法に背き、義に違ふ。忿をなし、怨みを結ぶ
(教行信証・化身土巻)

 

1207年の弾圧について、政府を糾弾するのだ。
天皇またその側近の臣下たち。
まことに明快である、当時に会って悪人正機とはなんであったのか?
悪人を善人より上位に置くということはどういうことであったのか?
悪人善人相互の身分を逆転しただけでなく、
貴賎の身分をも逆転してしまったのだ、

悪人を手本となし、善人まで摂す

 

上人伝は法然の言葉をこう記録している。
農民など庶民いわば下層階級である「悪人」が
王侯貴族など上層階級である「善人」を支配統率する……
と口語訳してみたがどうだろうか?

法然は一般庶民に向けてものを言う。
仏教世界での救済より摂政に意味で話した可能性が高い。
「摂」を摂政の意味として、口語訳をしてみたのだが、
こうなると正に、自由平等の民主主義である。
自由平等のフランス革命1794年より600年も前に
早々と平等とを民主主義を主張した者があったのだ。
法然とその弟子親鸞たち。
親鸞の浄土真宗にいたってはその実行を目指して戦ったのだ。

浄土真宗は又の名を一向宗。
一向一揆となって界隈一帯に広がり、
ついには織田信長に反抗、6万人の死者を出している。
信長に敗れ去ってはいるが、その昔、平等を目指し
主主義を夢見て勇気凛々戦ったものがあったことは、
誇ってもいいのではないか?

今はもう怖い信長はいないのだから、おそれることはない、
日本庶民といえば、ただもう権力者にはいつくばるだけ、
金を追うエコノミックアニマルはそのなれの果て、
今度は金に這いつくばるとの評判もこれで払拭できるのではないか?

イデオロギーもなし、神も思想もないとされる日本国だが、
ここにはイデオロギーを排撃を言う思想がある、
イデオロギーの根幹をなすはすの正義、良心等等を
断固切り捨てる思想がこの私たちの奥でうごいているのだ。

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あまりにも、あまりにも(悪人正機の悪悪悪)5

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「私伝」、つまり「私に言う」として
源智が作りだした説はおそらく虚妄の説、
浄土真宗三世覚如は、これを法然の発言として、
この源智のベールに丁寧に補足している

覚如の説明。
目下の高校教科書が採用しているものだが、
やたらややこしい解釈で驚く。
まずは表題の「悪人正機」の「機」。
「対象」という意味だとしての解釈だ。
つまりそこらに人を対象とした一般論ではなく悪人向けの説、というのだ。

お阿弥陀様は踏み惑う悪人に的を絞って
まずは悪人を救おうとなさってる……というのだ。
阿弥陀様?
古代の僧侶が生み出した幻覚?
目下の高校生にあっては、一種化け物が出てきたってところか?
 

覚如は親鸞の孫、浄土真宗3世。
浄土真宗の宗主としては、こういう風に解釈してほしいということだろう。
「悪人は正機」が「悪人を正機」と主語をなくした代わりに、
阿弥陀様を連れてきて、かつ「正機」は「対象」の意味になり、
正義とか正しいとかの意味を一挙に剥ぎ取っている。

これだと法然ないしは親鸞がいったのではなく、
あたかも阿弥陀様がおっしゃったようにも聞こえるわけで、
テイのいい責任転化、危険思想は阿弥陀様のせいとして、
いざとなればにげようとの算段。

まずは保身。自分が大事。宗派の存続が大事、
そこらの人などどうでもいい。
徹底的な利己主義に徹した解釈である。

覚如という人、抜群の頭脳ながら、ワルとして有名な人、
流石と感心するが、「機」という字にはそこまで
強い意味を持たせるた例はすくないのではないか?

漢和辞典でいくと、「機」を資格を持つもの、
資質をそなえたもの、という意味がある。
その意味合いを込めて、正しさをより強調、
口語訳となると「こそ」をつけて
「悪人こそが正しい」としたが自然ではないか?

それに悪人にむけ、一般向けではないとなると、
まず自分を悪人と思っている人はいないから、誰も無関係。
みな聞く必要もない。
悪人のたまり場、刑務所にいってそこで説法してくれとなってしまう。

「お釈迦様はあんたら悪人がまずは極楽行くよおっしゃってますよ」など
刑務所でいってもどうなるか。
極楽より何より檻から出たいわけで極楽などとんでもないことだ。

覚如流でいくと、まことに整然と阿弥陀様の心を汲み取って
すっかり穏やかなものにはなるのだけれど、
相手は百姓、農民。いったいだれがこういう
ややこしい解釈ができるだろうか?

覚如が口伝えで説いているものだが、
まさにお利巧さんの学僧の世界である。
まことに無難優雅な説である。
もしこういう解釈ができたなら、苦境を案じて
法然に集った門徒たちは、法然に喋るな、など
制したりはしなかっただろう。
居合わせた全員がこうは解釈できなかったということだ。


 

◆源智の本当の解


これを嘘のベールというなら、本来の源智はどう理解したのか?
ひっそりと胸にしまい込んだ本当の解釈は?

悪人正機説の「機」、
何かと出てくるだが、明確に訳さないで場合が多い。
強調するために置くという具合だ。
ごく単純に・・・・悪人こそが正しいという説……
こうなるのではないか?
まずはこの法語27箇条、はじめに悪人は人の手本といっているのだ。
主語は当然、悪人となる。
お手本なんだから悪人は当然正しいとなる。

「善人なおもて……」も同じ、よけいな補足はいらない。
……善人が極楽往生するというなら、
より一層正しい悪人が極楽往生しないはずがない。
まず一番に悪人が往生するのだ……。

結局、農民漁民遊女たちに法然は言いたいのだから、
こっちも当時の農民漁民遊女になったつもりで読めばいいのだ。
馬鹿のままでいい。それが正しい読み方だろう。

もう阿弥陀様も登場しない。
誰がいったのか?法然様がおっしゃったのだ……となる。
嘆異抄の読者なら親鸞がおっしゃったとなるとなる。
ここに及んで誰もが驚き高弟達は危険を察知する。
だがここで論理は確かな強度を持って立ち上がるのだ。

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あまりにも、あまりにも(悪人正機の悪悪悪)4

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◆私伝

嘆異抄も上記と同じ解説をつけているが、
書き写した唯円もしくは親鸞が、
源智の「私にいう」を見落としたのだろう。

「善人なおもて……」と同じ発言者、
つまり法然の発言としての解説を加えている。

しかしこれは親鸞の解説でもなければ、法然の解説でもない。
源智の解説である。目下の教科書はすべてこの覚如を踏襲するが、
すべて唯円の誤読を元にしたもの、訂正すべきだろう。

日ごろより、身近に法然の発言を聞いて
学んできた源智にあっては、上記は、
危険とも奇怪ともしなかったのだろう、
その言葉を判らなかったはずがない。
三日三晩、必死と考えたとは何を考えたのか?

三日三晩も考えなければ分からないようなものなら、
書き付けたりはしなかっただろう。
分からなかったのではない。
見事な言葉、なんとしても記録すべきものだ。
問題は、これらをどう隠すかである。
これを三日三晩考えたのではないか。

今でさえ道徳蹂躙として仏僧安楽など
前途ある僧たちが死罪へと追い込まれているのだ。
これ以上の罪科は御免である、
なんとして隠蔽する必要があった。

法然も選択集を隠すことを指示している。
これは選択集の比ではない。
書き残すことと同時にそれを隠す必要があった。

どう隠すかを三日三晩かんがえたのである。
どういう方法で隠せばいいのか?
源智は嘘のベールで隠そうしたのだ。
危険千万な法然言説の上にフワリとべールをかけたのだ。
そのベールをすかして、それらしいものは見えるとしても、
それは真実とは違う。

ひたすらややこしく、
そのために安全無害となった惰弱虚妄の文言の群……
頭脳明晰、透徹した論理に打ち抜かれているはずの
法然言説は若干25歳、愛弟子源智の悪行によって
似ても似つかぬもの変容させられたのだ…… 

さてこのあたりは私の勘ぐり。
目下の解説、
教科書採用の解説が不審でならなかった。
おかしい、法然にしろ、親鸞にしろ、
話す相手は農民、武士、遊女、漁民、
……こういうややこしい論理を説いたりするだろうか?

そんな小難しい事を言うはずがない。
こんな小ざかしいことをするはずがない。
法然はその絶筆に学問不知をいう、
早い話が学問してはいけないのだ。

ところがこの解説は
学問なければ読み解けない。おかしい……
上人伝をみて初めて氷解したこれは源智の悪だくみだ。
法然教理を故意にねじ曲げたのだ。
「悪人を人の手本となし……」
これで源智は自信を持って悪人に変貌したのだ。
源智によってなんだか訳の分からない教理となったのだが、
ともかく脆弱惰弱に安全無害になったのだ。
それなら生き延びる事ができる……

悪行をなす悪人こそが、人々の模範であり、手本である。
悪人こそが、善人を含めてすべてを掌握して統率できるのだ。
源智はこう読み解いたのではないか?
平家の総帥、平清盛の曾孫源智として、
なんとしても清盛の轍は回避しなければならなかった。

一族は全滅、彼は父を失い、兄を弟を失い、
叔父叔母も、友も部下もなく、すべてが奪われたのだ。
源智にあっては、
法然門下は彼の家族一族にかわるものとしてあったはず、
なんとしても守り通し末永く永続させる必要があった。

そのためには何でもをやる。
悪行も全てを入念に細心の注意をはらって、
時に善行と欺きつつ、悪智恵の限りを尽くして、
あの手この手の策を巡らし……
こうして100年200年、
いや1000年2000年と生かし続けなければならない。

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あまりにも、あまりにも(悪人正機の悪悪悪)2

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■勢観坊源智

勢観房源智は、元々は平清盛の嫡男、重盛の孫。
まず天台宗座主慈円もとで、出家得度したのち法然のもとに入室。
以後法然の死まで18年、法然に近侍して法然に学び、仕えた人物。

天台座主慈円は時の権力者九条兼実の実弟。
平家の遺児が生き延びるのは至難の時代、
源氏の探索を逃れるためにまずは法然、慈円に頼ったのだろう。

源智の祖父、平重盛は英明かつ勇猛な清盛の後継者として
一門の期待を一身に集めた人だが、途中で病死。
もし彼が壮健であったなら、とつい思わずにはいられない。

ああまでのあっけない滅亡には突入しないままに、
平家は永続、源智も政治の中心にあって
活躍していたのではないだろうか?

ついそう思わずにはいられないほどの源智なのだ。
特に法然死後。建立された寺の規模とその数の多さ。
法然建立として、源智の名前は出さないのものの法然死後の建立、
源智の建設による、広大は知恩院、百万遍地恩寺、金戒光光明寺……
いったいこの費用は誰が出したのか?
観光見物のつもりがつい気になって、訊ねてみたりした。

政府の援助ではない、全国の信徒が出しているのだ……と寺は胸を張るが、
京阪神だけでなく、南は九州から近畿まで
全国の信徒園数数万人を統括していたのがこの源智、その辣腕に驚く他はない。
だが遠い国にながされ、布教さえままならない、
いわば半ばは罪人であった法然に惜しみなく、
自身の富をつぎ込んだ信徒たち……
源智の辣腕もさることながら
法然教義への絶対の共感がまずは基盤だろう。
ここで、また法然教理、
その奇怪なまでの核心、「悪人正機」に戻りたい。

善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや

 
悪人が善人よりいいとはどういうことなのか。
この悪人正機、親鸞ではなく法然が言ったとしたら話は違ってくる。
以下法然の選択集の一文で明解ではないか?

謂はく内心と外相と不調の意なり。即ちこれ外は智、内は愚なり。
善とは悪に対するの辞なり。謂はく外はこれ善、内は即ち悪なり。

 
正式には選択本願念仏宗という。太政大臣九条兼実の要請で作成されたもの。読んで字の如しで、いちいちの説明は不要かもしれまいが、
……外見(外相)とその人の内心は同じではない(不調)。たとえば外見が智恵(智)
あるようなに見えるひとは案外に愚かな人の場合が多い。善悪についても同じ。
善と悪は相対してあるものだ。外側が善である人、つまり善人として振る舞う人は、
内心はというと、悪心でいっぱいとなる。

いち早く深層心理学。無意識の動きを言っている。
外側が善、菩提心満載の善人になれたって事は、
腹の中にどす黒い悪を隠したって事で、代わりにお腹の中は真っ黒。
そんな嘘つきのどこがいいのかってなる。
それよりか、お腹の中を丸出しの悪人が良いに決まってる……。

日常体験することも多いのではないか?
法然は実践の人。
飢えた人には、お粥を配っていた絵図が残されている。
そこらの皆が実際に役立つ論理を言うのだ。

突然訪れた人にどう対処したらいいのか?
満面の笑みで、甘い未来の夢を語る優しい人、まさに善人。
その人を信じていいのか?いや、それは悪者。オレオレ詐欺。
ごっそり持って行かれるよ。と法然はいうのである。

教説ではない。
善人悪人、二人の生身の人間を前において、
どう判断するかを言うのだ。

だがこの実利優先の論理は、ずばり私たちの深奥に直進。
20世紀、21世紀までも貫通する私たちの精神の核の部分を切り開いていく。
「善と悪は同一のもの」……
それは一人の人の中にあい並んで、あるものなのだ。
互いに排斥することもなく、相互に必須不可欠のものとして、作動していく。
善は必ずその内部に悪を内包し、悪もまた内部に善をかかえもつ、
善と悪、それらはその存立の基本要因として、その内部に相反するものを抱え持つのだ。

私たちは、私たち自身を知らない、私たちの裏側にすむもう一人の私。
それがどう思い、どう動いていくのか、知ることができない……
20世紀初頭、フロイトが開始した深層心理学である。
法然はすでにこの世界を生きていたのではないか?

自身を天使なりと言いつのったままに処刑されたナチス幹部もいる。
品行方正、清冽な正義を目指し、全ての人を魅了した彼の上司アドルフヒトラー。
そして彼が行った残酷の数々。
彼も悪鬼としての自身には気付かないままに天使として生を終えたのではないか?

遙か遠い過去から法然は彼らをしっかりと分析、
善人の恐ろしさを、悪人よりいっそうに恐ろしい人としての善人を思ったのだ。
これらは現実にその人を並べてみればわかるのだが。
教義として論理として内心と外相。
この論理「外相と内心」を理解できる人がいたろうか?
まずは「善人なおもて往生す……」これを収録した法然上人伝が厄介だ。

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あまりにも、あまりにも(悪人正機の悪悪悪)1

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悪人正機説もまるで知らなかったわけではない。
これをおさめた嘆異抄とやらが、またまた名著の由、
聞き知ってはいたのだが、最近まで読んだことがなかった。
顔のせいだ。
問題は親鸞の顔。こんな顔の奴がまともな事を言うはずがない、
こう思ってページはめくらないまま。

親鸞といえば普通にはよほど歳を食ってからの顔、
それも簡単な素描のものばかり。

全体もぼけていてよく分からない。
浄土真宗側が隠しているのではないか?とつい疑ってしまうが、
30代、40代、壮年期の顔が描かれたのは見たことがない。

90歳の最晩年までガンガン書き連ねた親鸞、
何歳になろうがモーロクのはずはないが、
それでもなんとかモーロクを待って、やっと描かれた肖像画、
やっとボケかかって、なんとか大人しくなられたときの顔……
それだけが出回って欲しい……こういう思惑での肖像画とか?

だが彫刻はそこここ残っている。
九州のはずれ、とかこんな所に?という
ひなびたお寺にあったりしてびっくりする。

近い所では千葉は佐貫。
内房線の「さぬき駅」(正式駅名は佐貫町駅)で下車。バスで1時間の神野寺。
虎が逃げ出して有名になった寺だ。
いまは真言宗だがその昔は浄土真宗。
親鸞が滞在して自身で彫った座像が残っている。

はじめは気がつかなかった。
このあたりの豪族か?このあたりにも戦国大名、
異名はマムシの斉藤道三、
そんなような男がいたんだな、思いながら眺めていた。

眼光ケイケイ、怒気をはらんでにらみつけ、
今にも飛びかからんばかり。
受付でこれが親鸞と聞いてもしばらくは信じられなかった。
宗教家のかおではない、山賊、海賊、強盗の顔である。

まさか、この男、自分のような悪漢が正しい、
あんたらみたいな美人さんより、
またそこらのお偉いさんより正しいとか言っているのではないか?
まさかとは思うがたまにそういうずうずうしいのがいる。
……なんとなんと結局はこの「まさか」だったのか?

==============================

まずは悪人正機説、これは以下である。

善人なおもて往生す、いわんや悪人おや

 
大変に有名な一文だが、この意味となるとまず大半がお手上げ。
大半が分からないという。

往生というのは極楽往生のこと。
直訳すると、

「善人でさえ極楽に行くことができるのですから、悪人ならまず大丈夫。間違いなく極楽に行きますす」となる。

悪人は死んだら地獄とおもっていたら、なんと極楽に行くというのだ。
悪人の方が、善人より先。
まず一番に極楽に行くというのだ。
つまり、悪人の方が善人より正しい、としているのだ。

こういう説は他には見当たらない。
外国にもないのではないか?
善と悪との身分を逆転させてしまっているのだ。

歎異抄は危険として長く公開されなかったのも、
この部分のためか?ともおもわれるが、
なぜ悪人の方が善人より、いいのか?
これが分からない。

めでたく成仏、極楽についた思ったら、
石川五右衛門やらアルカポネやらすごいのがゾロリとなると困るではないか!
だれがこんな厄介なことをいったのか?
親鸞という説と法然という説の2説がある。
今まではずっと親鸞の説とされてきたもの。まずは親鸞を探った。

それらしいことはモヤモヤと幾分か書いてあるようで、
この嘆異抄からは、しかとは掴めなかった。
どこか他に詳しく理由を書いているはずと、親鸞の文書を隈無く探した。

膨大な教行信証4巻、何でもかんでも書きまくる親鸞のこと、
その中に書いているるはずだ……ところが、結局なかったのだ。

善人については、書いている。
善人は余りに汚いと罵倒しているがその理由、なぜ汚いかは書かれていない。
悪人はなぜ善人より立派なのか?
その理由を親鸞からは見つけることができなかった。
ひょっとして親鸞、その理由は分からなかったのではないか?

たとえ法然師匠にだまされたとしても、かまわない。
法然師匠についていくと言う歎異抄のちょうどこの前の2章にある。
法然の教説とはいえ、中にはよく分からない教理、
ピンとこない教説もあったのだろう。
この悪人正機あたりもそうではなかったか?

最近では、悪人正機は法然の説とするのが普通。
法然の高弟源智の「法然上人伝」に同じ文が
法然の発言として記載されていたからだ。

これは歎異抄より50年も前のもの。
作者の源智は幼き日から終始法然のもとにあった人物。
おそらくは源智が法然から聞き取って書きしるし。
それを親鸞など、だれかれが写し取っていったのだろう。

法然絶筆、一文起請文はこの源智の要請で書かれたもので、
法然はその2日後に死亡している。

息も絶え絶えの法然を無理無理たたき起こし、書かせたのだ。
それまで冷酷な人と反感を持っていたのだがなぜか画像を見てすべて氷解した。

画像は京都百万遍知恩寺の奥、分厚いコンクリート壁の蔵の中にある。
この人は法然を熟知している。
ひょっとして法然以上に熟知していたのではないか。
法然を愛し法然を守り、その死後までも守り続け……
そういう人物ではなかったか。

地恩寺境内の奥で、墨染め粗衣をまとって
半ばほほえんだままに700年を経た源智。
ただの画像である。
小さな軸の絵でしかないが、
いまだ生命を持ったままの人物として、微笑んでいらっしゃる……。

その細い穏やかな目から、全てを射抜くかに見える眼光を発し続ける源智画像、
叡智はこんなにも暖かく幸せなものであったのかと不思議に思った。

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