妖精珍種1 細田妖精

支倉隆子戯曲「洪水伝説」は、全国各地を公演。
もう11回目になるが、1回ごとに趣向を凝らして飽きさせない。

第11回・洪水伝説

富士吉田市の富士山駅から徒歩10分、
画廊兼喫茶店での公演では、最後にリレー詩、
数人が同じタイトル「妖精」で、1編ずつ朗読したが、
それぞれの妖精がそれなりの妖精で面白かった。
以下は細田傳造さんの「妖精」。

細田傳造「妖精」

この妖精は、マットヘルス駅前2号店のお嬢さんたち。
ヘルスの妖精たちを自宅に呼び込んでのらんちき騒ぎで、気を吐いている。
ちょいと手強そうな妖精だが、ひょいと消えてくれるところがいい。
ここが妖精の真骨頂だ。

奥さんはこうは行かない。
ガンとして消えない。
しぶとく長々と亭主をいじめ続けるのも多い。
だが、いじめてくれる女が皆無を言うのもちょい寂しいもの、で
ドカンと駅前ヘルスから借りてきたという算段だ。
こっちが案外やすあがりかもしれない。
 

詩といえばまずは悲劇。
ヨーロッパ上層階級の学問のながれの中を泳いできた西欧詩篇は、
深遠かつ高雅な古代ギリシア、ローマ文学がお手本。
目の前の事実は書かない、繁栄も書かない。
だから、こういう楽しい詩は珍しい。滅多にお目にかかれない。
18世紀マウンドビル以来か?
(というと大げさに聞こえるが、本当にこの類は見かけないのだ)
 
売り子
 

マウンドビル


マウンドビルの場合は、ぐっとえげつない。
あくどいまでの事実であり、とことんの繁栄、
うんざりするまでの繁栄である。
そこまで突き進む。
 
何せ長い、細田詩編の100倍くらいか?
延々と続くのだ。
次から次に事実が並び、繁栄はとことん極まって、
それでもあきずに、またその先へと進むのだ。
 

作者マウンドビルは本職は医者兼理髪師、
国籍はオランダだが、金満王国英国で大ヒット、我も我もと読まれた。
だが、しっかりした方々、上層のお歴々は怒りまくり、
特に教会。
しつこく長々と真ウドビルと攻撃、裁判提訴する……
キリスト教では贅沢と貪欲が悪徳、
そればかりを書きまくるのだから、始末に負えない悪書ということになる。
 
ところが、お歴々の中に一人、例外がいたわけで、
この例外人が、この延々たるなかから、不変不滅の経済理論を、掴み取るのだ。
 
ご存じ、グラスゴー大学の哲学教授アダム・スミスの「見えざる手」だ。

アダム・スミス

すでに「道徳情操論」で、大ヒット、
令名すざまじく、アカデミーに出向くと
会員総立ちで出迎えたという大物中の大物が
この悪徳詩編に熱狂、ここからあの長々しい、
あまりに長々しい「国富論」を書き始めたのだ。
 
とはいえマウドビルの方は、何かをつきつめようとして書いたわけではない。
面白くなって延々とただ延々とつづけたのではないか?

ふっと気がつくと期せずして、不変不滅の論理、「見えざる手」を浮上させていたのだ。
 
えてして思った所には行かない。
時としてとんでもないところに行く。
 
これまた見えざる手であるが、
悪徳が善なる世界を築いていく様をありありと、
誰でも見える形で書き連ねたのだ。

ドラゴン in the Sea 下「終わりに」

ドラゴン in the Sea 下
ドラゴン in the Sea 下ドラゴン in the Sea、上巻に続き、今回は、下巻の末文を全文公開いたします。
 
ドラゴンの住処である海、そこから派生する思想。
龍樹と仏教、最後は詩人、梅田智江の詩篇で締めくくります。
ぜひ、ご一読ください。


 
終わりに


 
 
戸沢 長々ドラゴン方式をしゃべってきましたが、
法然や親鸞の元祖、龍樹からそう名付けたんですか?
 
阿賀 いいえ、ずっと龍樹のことは忘れてました。
その昔、キリスト教が海へ突き落とした龍にちなんで、
ふっと、そう言ってみただけなんです。
でもドラゴンって、キリストをさかのぼること五百年、
ソクラテスの時代から、すでに海で暮らしていたみたいです。
 

学者であって知恵があるために
議論の一つの頭が切られれば
その代わりに無数の頭をつきだす海竜
(「エウチュデーモス」『プラトーン全集』木村鷹太郎訳 冨山房)

 
海を棲家とする海龍に例えているということは、
思考形式としては意識化されないまま、
無意識の海の中にたゆたっていたのでしょうが、
実際には当時のギリシャを支えていた
強力な思考形式だったのではないか?
 
阿賀 プラトンはこの龍は英雄ヘラクレスでさえ
一人では征伐できなかったほどの怪物。
我々ごときは、この怪物の正体を
掴むことさえできない、なんて言っています。
 
ソクラテスたちプラトン一派には、
捕えがたいほどの知性と力を持った
ある思潮なり思考システムなりが、
存在していたのではないでしょうか?
 
そしてその正体は、海に潜む龍のように捕らえがたく、
くねくねとくねりながら動くもので、
実際の思考システムなのかあるいは、幻覚として在るのか、
ソクラテスたちには、それさえ不明の恐るべきものではなかったか。
 
戸沢 まさに龍樹ですねえ。
なんせ龍なんですから、インドだって一泳ぎ、
ちと上陸して龍樹へと化けたのかもです(笑)。
 
阿賀 図書館に行くと、
最近、龍樹の関連本がよく貸し出されています。
相当に難解なものまで、数十年ぶりに復刻され始めたり、
いよいよ私たちは龍を必要とし始めたのですね。
 
龍樹については、特にその思考形式というか
思考システムにスポットをあて、
カント、ヘーゲル、アリストテレスなど
ヨーロッパのロゴスの哲学と対比して解説した
山内得立『ロゴスとレンマ』がありますが、
西洋とは異質ながら、西洋思考システムを包含しつつ、
かつ凌駕していくものと見ています。
 

ロゴス以外に論理がないというのは
西欧思想の越権であり倨傲でさえある。
(前掲『ロゴスとレンマ』)

 
戸沢 ロゴスの論理は言語が基盤。
言語に浮上する前の無意識にしろ、異次元にしろカットして始まる。
これじゃちと狭いですよね。
 
阿賀 そうですねえ。
今回は仏教の中でも特に浄土という異次元を
大幅に包含して成立した仏教思想をとりあげ、
これが市場システムなり、『大菩薩峠』などの読物の中を、
それとは感知されないままに這うように流れている、
と見てきたのですが、これらはヨーロッパ思想に拮抗する
重要な哲学ではなかったのか。
 
確かに、従来ほど単純な哲学でも、綺麗な思想でもありませんが、
誰もが把握できて、そこを流れることが出来る
有効な哲学となり得るように思います。
 
今回は、今まで未解読であった女性詩人の詩篇をとりあげ、
その解読も試みました。
龍的な人物、女性の思想家なりが
浮上してくるのではないか、と思っていたのですが、
龍樹、法然、親鸞、そしてボウイにマンソン……と、
案に相違して最後は男ばかりの登場となってしまいました。
 
これではちと淋しいので、最後は女性詩人で締めくくりたいと思います。
梅田智江「妖花記」から。
多頭の蛇、聖書黙示録に言う多頭のドラゴンのような花、
これが登場する後半部分です。
 

この花がもっとも激しく捕食をするのは、
月光の降る夜で、甘い分泌液と共に、ひときわ
強い芳香を放ち、花弁を震わすのだという。
その匂いは媚薬のように、
一度嗅いだら逃れることは叶わなくて、
哀れな犠牲者は、次々に花のなかに消えていくのだ。
それ故に一層その群落を広大にして、
じわじわと瓦礫の都市へと侵食していったのである。
飢えた人々が、この花の甘い蜜を
どれほど貪り食らおうとも、
彼女らの繁殖力の凄まじさの方が勝っていた。
すべてのものが死に絶えた都市の舗道に、崩れた壁に、
途切れた階段、風にはためく扉にさえ、彼女らは
多頭の蛇のごとく貪欲に、その根を伸ばしたのだ。
「それは残酷な眺めであった」
と、ハムプキンズ氏は記している。
上空から見ると、都市は死装束のように、
純白の花たちで覆われていた。
だが、懸命に生殖器を剥き出しにして、
絶叫するように、
月に向って一斉に翻ってもその花たちの
生殖器を必要とするものはなかったのである。
その虚しさゆえに
彼女らは戦慄的に美しかったというのだ。
(梅田智江 『変容記』)

 
エミリ・ブロンテのように天高く聳えたい人もいるでしょう。
でも私は地底のこのドラゴンの花々の方に自分を重ねてしまいます。
このように醜悪で、はびこっていくもの、
醜悪のゆえに強靭であるものとしての私を思います。
 
戸沢 この詩は、ひょっとして警告ではありませんか?
女性というより、私達、ヒトと言う種族の繁殖力の恐ろしさ、
繁栄がもたらす不幸を予言していませんか?
巫女たちの紡ぎだす詩篇はデルフォイの神託と崇められて
古代ギリシァの人たちは従ったといいます。
今、女性詩人たちが、無意識から繰り出す詩篇もまた同じ。
従えとはいいませんが、耳を塞ぐべきではないと思いますね。
 
阿賀 無意識や性など、今回取り上げたものは
ウロンなものとして捨て置かれてきたものばかりですが、
どうでしょうか。そこには科学や哲学などの学問では届かない
底知れぬ智恵が眠っているような気がします。
 
 
ドラゴン in the Sea 上


ドラゴン in the Sea 下

女人成仏

パンチャタントラ
梅原猛『法然の悲しみ』は、特に母親鎮魂ための女人成仏に注目している。
仏教での「悪」と言えばまず女性。
釈迦も美しい妻を捨てる事から始めている。
法然が師と仰ぐ中国仏僧、善導は特に女嫌い。
女性恐怖症に近い。
この善導をおしいただく法然のこと、悪人といえば、まずは女性が念頭にあったはずだ。

法然の悪人正機説は、一般的悪人の成仏に加えて、この女という「悪人」もまたしっかりと成仏させてしまう。
となるとどうなるのか。
妻帯OKなど日本独自の仏教へと変容。
親鸞みたいに女犯の罪などクヨクヨする必要もなくなって、実に重宝便利だが、それだけでなく思考スタイルとして、世界に例のない哲学となるのではないか?

主義主張、宗教も、まずは「否定」をバネに浮上する。
民主主義なら、君主主義やら独裁政治の否定、キリスト教ならそれまでの多神教やユダヤ教の否定……。
当初は旧弊が一掃され、ありがたいのだけれど、必ずそうではないものの迫害を伴うもの。
民主主義だから安全と呑気に構えていたら、反民主主義の国とされたばかりに、雨霰と爆弾投下、殺戮専科となって民主主義なんぞ吹き飛んでしまっている。

法然仏教には、まずは「否定」がない、「悪」がない。
主義主張に付き物の攻撃力が削がれている。
悪の征伐なしの安全な思考として、法然仏教はもっと注目されてもいいのではないか?

 
インドの悪女


パンチャタントラ
パンチャタントラ
『ドラゴン6章』では、古代民話「パンチャタントラ」から、悪女を登場させ、その悪女に堂々たる悪の理念を喋らせているが、ちょうどお釈迦様の国の古い古い民話、当時、女性はこういうものとされていたのかもしれない。

法然選択集には、これら悪女の描写に似た記述もあり、女人成仏もひょっとするとこの古代インドの性悪女性を念頭に置いての教説かとも思われたのだが、法然の悪人は、どこか南国風、カラリと明るいのだ。

親鸞、歎異抄での悪人は、やむにやまれず悪事をなしたとか、どこか悲壮感が漂う。
親鸞としては、これぞ師匠、法然の根本思想、より一層強調したいと、ガンガンの劇的発言となったのだろうが、元々の法然発言は、もっと広やかなものではなかったろうか。

法然にいう悪人は、取り立てての事情もないままに元からの悪人。
悪こそが人の本性。だから悪が「正機」なりとケロリの風情。
これはもう、今世紀の劇的発見、リチャード・ドーキンス、悪の遺伝子の世界である。
800年も前からそんな土俵に平然と座っている。

悪人正機説では悪人がいなくなってしまう。だから地獄もない。
死後の地獄行きを恐れて貴族たちは広大な所領を寺に寄進、その土地を耕す農民達もしっかり年貢を奉納してきたが、地獄がないのならもうその必要はない。
他のどの教説より、よりいっそう旧仏教の経済基盤を脅かす教説として、バッシングを受けてきたのだろうが、ともかくあの恐ろしい地獄を、閻魔様もろとも、バッサリ消し去ってくださったのだ。
何ともありがたいこと、特に悪人の方々は、法然さまに感謝しなくてはそれこそ、バチが当たるだろう。

一世紀、ローマ帝国の凄惨なキリスト教迫害への怨念が、新約聖書を作り出したと、D・H・ロレンスは言う。
書物だけではない、重大な事象の裏には、消しがたい何らかの怨念がある。
梅原猛『法然の哀しみ』は、非業の生に沈んだ母への哀惜が法然仏教を導いたと説く。
法然仏教も又また怨念のたまものかもしれない。
だが母を思う故の怨念は、どこかロマンに満ちて美しい。

なんだかんだとはいえ、私たちの時代は殺人鬼の時代である。
清楚で余りにも善良な母親に育てられた清廉な青年ヒトラーが正義を求めるままに史上最大最悪の殺人鬼へと変容した時代を生きてきたのである。
日本殺人鬼、机竜之介またヨーロッパ殺人鬼、プリンス・モニーは、20世紀ドラゴンを語るには必須不可欠のアイテムかと思われる。
 
 
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ドラゴン in the Sea 上「はじめに」

ドラゴン in the Sea 上 阿賀猥×中本道代×戸沢英土
ドラゴン in the Sea 上 阿賀猥×中本道代×戸沢英土JO5の流れを受け継ぎ、満を持して登場した『ドラゴン in the Sea 上』。
今回は、まえがきを全文公開いたします。
 
なぜタイトルが「ドラゴン」なのか。龍にも色々あるのに、なぜ「in the Sea」、海の中なのか。
ちょっと長めですが、ご一読頂ければ幸いです。
 
 
 
 
 
 
 
 
はじめに


阿賀猥
 

その昔は神様といえば蛇ないし龍。
世界各地で祭られていたようだ。
稲作農耕の日本では、水の神様として龍神信仰が今も各地に点在、なにかとドラゴンはなじみ深いが、蛇ないし龍が王家の妻として登場しているのに注目した。
 
妻は妻でも刺身のツマのようではなく妙に大きい。
たとえば神武天皇の祖父山幸の妻、豊玉姫。
彼女の産屋が宮崎県の鵜戸神宮に残っているが、八尋(約十五メートル)もの巨大蛇であった。
海神ワタツミノミコトの娘で、出産後は子を置いて独り、海に帰っている。
その置き去りにされた子供、つまり神武の父、ウガヤフキアヘズもまた豊玉姫と同じく海神ワタツミノミコトの娘、玉依姫と結婚している。
おそらくは彼女もまた巨大蛇であったろう。
 
環太平洋ではカンボジア。
アンコールワットも王宮であると同時に巨大蛇ナーガの館。
巨大蛇を妻として毎夜その妻に仕えるという責務が王にあった。
恵みの雨を降らせるありがたい優しい龍ではない。
海を動かし陸を壊す強暴巨大なドラゴンの存在があり、この対策が国家的規模で最重要の課題としてあったのだろう。
海に従う、海を祭る、という形で王家との婚姻がなされたように推測される。
 
特に山幸は、龍宮からの帰還に際して玉手箱ならぬ潮満瓊(シオミツタマ)と潮涸瓊(シオヒノタマ)の二つを海神から貰い受けている。後者は海の水を引かせる働きをし、前者は海の水を溢れさせる働きをする。
まさに津波対策である。
先史時代、環太平洋地帯は今と同じく大津波のすさまじい惨禍を受けたことがあり、その記憶がこれらの土台にあるかと思われる。
 

本稿開始は七年前の二〇〇四年、思潮社小田久郎氏からの電話が発端。
私は当時の新聞記事、
 

「AV女優の志願者が急増している。
 それも旅行会社勤務の女性が多い。
 彼女たちは旅に出ようとしているのではないか?」

 
について、喋った記憶がある。
彼女たちは不特定多数に下半身を開くことで、普遍への道を探ろうとしているのではないか?
そういう目線から世界を見直すことができるのではないか?
そこから新しい広やかな世界へと抜けることが、できるかもしれない。
 
低いから見えないということはない。
低きに低き視点、それゆえにこそ開ける世界があるはずだ。
天をかけるドラゴンではない。
地の底をくねり、世間の塵芥の下、汚泥の中を転びながら、這いながらも、なおも生き続ける私たちの中のもう一つの私「ドラゴン」について、小田久郎氏に奇妙な私信を書き綴ったことがある。
 

前半は1章から3章、ヨーロッパの底の部分から、世界を見渡していく。
国富論がその基盤に抱え持つ長篇詩「ブンブン不平を鳴らす蜂の巣…」、エミリ・ブロンテが「嵐が丘」に隠蔽した奇怪な愛、そしてヒトラー。
雨樋の裏、教会の椅子の裏に彫り込まれた小さな豚の絵から、ホロコーストを追う。
 
後半は4章から7章。
法然、親鸞の思想を現代ロック、デビッド・ボウイ、マリリン・マンソンの歌詞との近似に注目、日本仏教の過激な起源を探る。
その起源、大乗仏教の元祖龍樹の見事な詩行「中論」、そしてそこを貫流するレンマの論理。
西洋ロゴスの論理を軽やかに切り崩していくレンマ、レンマは殺人鬼机竜之助をまた怪物エミリ・ブロンテを許容できるのか。
かくて最後に龍の論理。論理のすべてを許容するかに見えてあるときは一切を破砕する龍の論理。
言語を持たないもの、明確な姿をさえ持たないものたちの無念とその意思を抱え持つ龍の論理、つまりは大自然の意思、これらを感知できるのかどうか?
 

私たち対談者三名はかつての山幸のように、まずは海へと潜ることで作業を開始した。
廃棄された資料、無視された過去の事実を拾い起こし、探ることでドラゴンの意思を読み解こうとした。
キリストの愛、釈迦の明晰が覆う固い強固な地層を壊し、その下にあるものを見ようとした。
 
対談者はそれぞれ資料を持参。
相互に読み合わせながら作成、話題が多岐にわたったため、多くの専門分野の方々に点検を依頼した。
 
長野県の山中、昆虫を追う筑波大学研究員福井眞生子氏、同じく筑波大学物理学研究者、また現代企業最先端を生きる方々、仏教研究者の方々など、二十名以上の方々から大量の資料もいただき納得のいく補正をすることができた。
 
特に上巻は3章経済学を小林健吾氏に、
1,2章を梅原猛氏に点検を依頼、梅原氏には病気静養中にかかわらず、次々に未完成原稿を読破いただき
 

「過激だがものすごい面白さ、あなたはニーチェを思わせる」

 
など、嬉しいエールをいただいた。
ここに御礼を申し上げたい。
 
 
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