『大菩薩峠』と芥川龍之介

今回の『ドラゴンin the Sea』の下巻にその発言をそのまま引用、掲載したが、芥川龍之介は『大菩薩峠』をあまたの文学書を差し置いて屹立する大傑作との
言葉を残している。
すべてが消える、大菩薩峠以外は残らないとも言ったそうである。
芥川の師、漱石も消えるのか? 鴎外も消えるのか?

介山は、これらの文学がよってたつ国家治安を許せなかったのではないか?
かれらの文学が希求する国家安寧と平穏をあくまで許す事ができなかった中里介山、彼の芯の部分が治安維持法、この法案の裏から透けてみえてくる。
治安を乱すために、介山は刺客机竜之介を、作り出したのだ。こういう形で治安維持法に対決したのだ。

tanizaki「改造」連載の中里作品『夢殿』は、谷崎潤一郎に絶賛された事でも有名である。
だが中里は、これを歯牙にもかけず無視、あたかも唾棄すべきもののように、対応している。敵は本能寺、治安維持法である、文壇の治安など、どうでもよかったのだろうが。

芥川の中里以外はすべてが消えるとの発言、最晩年の発言だけに気になるが、同時期に執筆された芥川の評論のどこにも類似の発言は見つけることはできなかった。
彼自身で記述したものの中にはないのかもしれない。
最後の評論『文芸的な、余りに文芸的な・・・』には、大衆文学としての項目はあるものの、わずか4行。取るに足らないもの、言う必要もないとでもいうような、書きぶりである。だが、なぜそのタイトル、「文学」ではなく「文芸」としたのか?
なぜ『文学的な、あまりに文学的な…』ではないのか?
大菩薩峠はどうなのか。『大菩薩峠』、これなら文学となるのではないか?

akutagawa自身の文学は単に「芸」でしかない。中里以外の全ての著作、自身の労作のすべても、単に『芸』として、いずれは消え去る・・・こういう思いが芥川をよぎったりはしなかったか?

谷崎潤一郎の絶賛を、唾棄すべきものとして、侮蔑をもって答えた介山である。
芥川身の作品の数々もまた、取るに足らないものとして、侮蔑の一閃で、却下……となるのは、必定だろう。
谷崎のもと、あるいは漱石の翼の下に生き続けてきた芥川、治安の側で、治安の翼の下に、ぬくぬくとしてあった自身の文学を、同じく唾棄すべきものとして、より一層唾棄すべきものとして、裁断を迫られたのではないか?
こういう危惧が、芥川を自死へと追い込んでいった……とか。

たかが新聞連載の大衆小説といってしまえば、それで終わる。
だが、図書館に真っ黒い手垢をつけた大菩薩峠が、それこそ、ところによっては数種類、並べられているのを見るたび、芥川の言葉を思う。
 
 
 
 
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正宗白鳥と文化勲章

正宗白鳥
今回、イガイガ本、ドラゴン下巻については、たくさんのカンパをいただいた。
中でも石川逸子著「オサヒト覚え書き」(¥3800一葉社)は圧巻。
延々925ページ、1000ページに迫る大著。
「歴史から消されようした」重大な事件の数々をしっかり掘りあげて丁寧に詳述した力作。
たとえば江華島事件。
西郷隆盛の朝鮮征伐の話は、小耳にはさんだことはあるが、全容を詳述、驚かされた。
過去の様々の歴上の事件は洗い直しを迫られることだろう。
明治維新だって全く別様の事件として浮上するのではないか?

掘り起こしたということでは、ドラゴンも共通する面があるかもしれないが、幸徳秋水、小林多喜二を死へと追いこんだ大逆事件などは、いまだ全容は闇の中、最近になってようやく、これら法案の犠牲者の遺族が裁判勝訴、無罪判決を獲得し始めているので、これからは、変わっていくかもしれないが、ドラゴンではそのままに通り過ぎている。

ところが、こういうオオゴトが起こったに関わらず、これら一切に無関心のままに平然と生きた人もいたわけで、これが正宗白鳥。
明治から大正昭和の長きに渡って文壇に隠然たる勢力を持った正宗白鳥だが、最晩年はどういうわけか、治安破りの戯曲や小説を大量作成している……
とはいっても刀振り回すのいではなくて、グニャリくにゃくにゃになることで、「治安」などなし崩しに消していくのだ。

「大菩薩峠」のような大衆文学とは違って、純文学では、早々簡単に治安破りはできないが、正宗白鳥は別。
治安なんか、知ったことかの不埒な作品を書きまくっている。
インテリ風の主人公たちが簡単にコロコロと殺人を犯して進行。
無差別殺人というか、動機がない事件が起こしていく。
日常茶飯に殺人が、織り込まれていくわけで、これは大菩薩峠とおなじく、実際にはありえないとしても、なぜか、こちらの方がより真実に近い気がする。

不条理殺人といえばドストエーフスキー『罪と罰』やカミュ『異邦人』。
双方、その動機についても作中で長々と語られるのだが、白鳥作品は、そういう説明の一切がない。
あたかも、蚊でも殺された程度のわずかな波動で、「殺人」が登場していく。
犯人は、ごくごくの普通人。
経済的な面でも、ほかも面でも、きわめて安定した位置にある人物。
長年の日常をそつなくこなし、この安定した地位を得てきたのだろうが、そういう彼らがいちどきにパッパッと全てを捨ててを凶行に及ぶのだ。

長年の平穏が隠し持った不穏、彼らの上をゆったりと流れた「平安」、その平安が押さえ込んでいた殺意が、これこそが「平穏」なり、「平安」なり、とでも言わんばかりに平然と何の断りもなく登場、そしてまた、そういう奇怪な挿入を経て、日常が再び平然と稼働していく。

同時期の作品群、たとえば「老人部屋」など、いよいよ白鳥も耄碌か?と
それはもうとんだ悪評で文壇をにぎわせていた時期の作。
これ又悪評かと思っていたが、ただ一人、川端康成は別。徹底的な絶賛を書き残している。

正宗白鳥この白鳥は晩年、文化勲章を受賞したのだが、問題はその後。
その勲章が東京駅のゴミ箱から出てきて、大騒ぎになった。
それなりの事情があったということで、落ち着いたようだけれど、白鳥はやはりで捨てたのではないか?
ひどく小柄な人、老齢かつ元々病弱、小田原だったか大磯だったかの彼の自宅まではかなりの距離。
運ぶのは難儀で、ついごみ箱へポイ!

白鳥は読売新聞に勤務、長年にわたり健筆をふるった人なので、受賞に際しては大々的に5段ぬきで、感想を書いているが、それがまあ、何とも書いてないというか、さっぱりと感動のカケラもない。
ありがたいだの、嬉しいだの、まして陛下の言葉に感激など、一切がゼロ。
こういう対応の人、珍しいのではないか?
文化勲章ならずとも、天皇からいただいたものをたちどころに処分、という人は、珍しいだろう。

「天皇制反対など、騒いでいる人たちは実は、大丈夫なのだ。こういう人たちは、この制度を評価しているから騒ぐのだ。これに反して全く無関心な人がいる。こういう人たちが増えると天皇制はなくなるだろう。天皇制の本当の敵はこういう人たちなのだ……」

うろ覚えなのだけれど、どこかで昭和天皇が、天皇制について、こう漏らされた由、親しく接見した人が書いていた。

正宗白鳥、最晩年の戯曲は川端康成が激賞してことでも知られ、最近まで上演されたりしているが、無関心人間というの、一見弱そうだが白鳥みたいに、意外に強靭、時代を超え、制度を無視して、しぶとく生き抜いていくのかもしれない。

まじめが良いか、でたらめ無関心、めちゃくちゃグニャグニャの無節操がいいのか、まことに、どうしていいかわからないものである。
 
 
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奇怪本か?? ドラゴン下巻

ドラゴンといえば、空を駆けるもの、イガイガ本のドラゴンのように、海に潜ったのは少ない。
絵でいうとパウル・クレーの怪獣退治くらいか?
小舟の男が、長い槍で海から顔をのぞかせている怪獣たちを退治しようとしている。

Paul_Klee

ところで、この小舟に女が乗っていたら?
男ではなく女ならどうするか?

おそらく、槍を投げ捨てるだろう。
いちいち恐ろしい怪獣に刃向かったりはしない。
彼らが悠々と海を泳ぐのを眺めていた方が楽である。
怖い思いは押し殺してもそうした方がいい。

もし彼女が欲張りなら、どうするか?
せっかく見つけたドラゴン、見るだけではもったいない、なんとか縮めて持って帰れないものか、ちょいと縮めれば結構な現代アート、壁飾りにして売り出したり……と強欲頭をキリキリはたらかせる……にならないか?

今回の小舟には強欲女が3人、何食わぬ顔で竜をおだてて、ばっちり撮影、圧縮して持ち帰り小型化したもの……と私は見ているのだけれど、うまく圧縮できたのかどうか?かわいいドラゴンちゃんにできたかどうか?

ドラゴンなんか小型化しなくともいい、我が家にはすでに一匹、中型がいる、女房で十分……という人がいるかもしれない。
でも、海のドラゴンといえば、これはもう、あの恐ろしい「津波」である。
何とか小型化する必要があるのだ。

 
ドラゴン評


今までにない沢山の感想をいただいたのだけれど、上巻と違って圧倒的に女性。
上巻での男性ファンは、宗旨変え、沈黙スタイルに変わった人が多い。
で、まずは女性。
女性では、江夏名枝さんや北川朱実さん。素敵な感想をいただいた。
イガイガ・ドラゴンに予想もしない魅惑を発見していただいたりで、びっくりした。
ひょっとして彼女たちはドラゴンではないのだろうか?

男性では酷評?に注目した。
はじめは驚いたが、これが一番、正確なのかもしれない。
つまり竜の眺め方なのだが、きちんと正しい位置から、眺めているのではないか?

お二人ほぼ同じ感想なのだけれど、一人は作曲家の高橋芳一さん、もう一人は詩人の中川千春さん、「頭がグルグル混乱しました、よくもまあ、こんな複雑なこと、考えていられますねえ」
中川さんは、その上に奇書との評、かつ、目下のこのブログを「怪文書」とも評された。
仰天したのだけれど、見る人からみれば正にそうかもしれない。

 
怪文書の続き


で、以下怪文書を続けるのだが、ただ対談者(作者たち)は、絵入り図入り、優しい楽しい一種絵巻物のような娯楽本にしたいと喋り続けているのだ。
誰もが分かる、読めば漸次頭もすっきり整理されてくる……そういう重宝かつ便利な読み物を作ったつもりなのである。
ストーリーは次から次へと無理なく続いていくはずだ……だがふと遠望すると、どうなるか?特に善悪をポイントに全体を眺め渡すとどうなるか?

無差別殺人鬼、机竜之介一人ならまだ許せるのを下巻にいたるや、一万一千人もの処女を犯して殺害した凶悪無類の殺人鬼を大暴れさせた上に、絶賛を惜しまない……これはもう徹底的な悪人礼賛かと思いきや、そのまま利他主義専門、貧民救済に没頭した法然や親鸞へと突入、今度はたちまち利他主義に変心して、いじめにあえぐ学童を助けられないかと、思い悩む……。

悪人礼賛のようで、またまた逆走、まさに無茶苦茶である。
頭ぐるぐるになってしまうだろう。
いったい「ドラゴンintheSEA」は何を言いたいのか?何を主張しているのか?

思うに、一切の主張をしていないのではないだろうか?
書物がいちいち何らかの主張をする必要があるだろうか?
テーマは次々に変容、一切のテーゼもなし崩しに壊しながらこのドラゴンは海を進む。
でも私たちの日常はこういうものではないか?

A→B→C→D→……話は進む、ふと足を止め、A→Dを見たらどうなるか?
もう「→」ではつなげなくなっている。
だが事実はそう流れ、そんな風につながってグニャグニャと進んで行くのではないか?

話を元に戻したい、小舟の上の女3人に戻ってみよう。
彼女たちはドラゴンから、何らかの利得を得たいとして、ドラゴンを眺めているのだ。
ドラゴンに魅入られた風情ではあるものの、その実は最新技術をバッチリ搭載したカメラを隠し持ち、ドラゴン神の裏の裏まで見極めようと目を凝らしているのだ。

ドラゴンの主張など、聞こうとは思わない。古代神殿の巫女たちとは違う。
そんなことはどうでもいい。
海の波間に見え隠れするドラゴンの全容を何とかとらえたい。
海の奥までカメラを潜らせ、まずは全景を把握したい。
何らかの利得は、そこから、自ずから浮かびあがるだろうが、まずは、全容の把握が先決……このあたりが彼女たちの状況か?

ところが、いったい仮にも全容が把握できたとして、全容らしきものを視界に浮上させたとして、この私たちにそれを見る能力があるかどうか、である。
ただのグルグル巻にしか見えなかったりでは困るのだ。
何せ、ヨーロッパ・ドラゴンといえば、頭を9個もつけて古代ギリシャを泳いだプラトン竜。
これを初めとして、見るに耐えないものばかり、目を覆うしかないのではないか?

けれど、万事は慣れである。
ピカソのゲルニカだって、倉庫の壁にでも描かれたら、直ちに落書きとしてふき取られたことだろう。
モネの睡蓮だって同じ、睡蓮かどうかさえ分からない。
ここらにああいうごちゃごちゃした池があれば、管理不行き届きで、役人は処罰されるだろう。

だが、慣れてくれば別。
落書き風ピカソ絵から、見事な新型美女が登場したように、こちら多頭の竜ながら、なんせ脳味噌は9匹分、尋常ではないのだから、見事なエロス竜へとしっかり変容してるかもしれない。
無闇と多い脚ながら、そのうち目が慣れてどの1本がどう動けば、金が儲かり、どちらに跳ねれば災厄になるのかも、漸次、分かってくる。
まずは見ることであり、見て慣れることである。
 
 
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20世紀と殺人鬼(1)

ギョーム・アポリネール
ドラゴンが、タイトルなんだから、早々おとなしい本には、ならないのだけれど、問題は殺人鬼。
上巻、大菩薩峠の机竜之介にひき続いて、下巻ではアポリネール、『一万一千本の鞭』から、殺人鬼モニーが登場して大暴れ、かなり危ない本となってしまった。

20世紀は殺人の世紀、ホロコーストに原爆に大戦……と、おびただしい殺戮である。
恐らくは、これらを生み出した私たちの中の残酷をそっくり汲み上げて、これら物語が浮上、竜之介やモニーを生んだと思われるが、だからといって殺人礼賛をするわけにはいかない。
そういう時代だからこそ、いよいよ皆で声を大にして平和平和と騒ぐのだけれど、このドラゴンは別。
なぜ、いちいち殺人小説を取りあげるのか。

それも二千年来の新約聖書と並べて、あるいはアダム・スミス『国富論』等々名著の数々と同レベルで評価していくのか?なぜそこまで浮上させるのか?
まず気になるのが双方が抱える大量の読者だ。
大菩薩の場合は、新聞連載にはじまって後には、筑摩書房と富士見書房で単行本化。
最近は数種類もの文庫本が販売されている。
1万1千本も同じ。東洋の果てに流れ着いて複数の版元で、文庫化されて版を重ねている。世界を見渡せば驚くべき読者数になるだろう。

なぜ皆殺人小説を読みたいのか?
殺人も殺意も、もう真っ平、見たくも聞きたくもないはずを、実はこれは上辺だけのことなのか、その内実は殺意に満ち満ちて……ということか?皆争って平和を言う、だがそれが本音だろうか?本音の裏側の部分で私たちは「殺人」を愛し、期待し、狂喜しているのではないか?建前はもういい。言い尽くされてきた。ドラゴンは、誰もが隠し持っている部分を露出させていく。

だが、ここで心配。
そんなものを露出させては、読者を殺人へと走らせたりしないだろうか?
物騒な殺人鬼と言っても万事は、物語の中、まず現実には作動しない。大菩薩峠と『一万一千本の鞭』、双方大量の読者を抱えながら、だからといってそれら読者が殺人に走った、という事は聞いたことがない。
また作品と作者は違う。中里介山など、粗衣粗食、聖人君子のごとき日常で驚くばかり。
アポリネールも繊細な人、盟友ピカソと共にモナリザ盗難の容疑がかけられた時は、とことんへこんでしまっている。双方、殺人どころかである。

ギョーム・アポリネール
ギョーム・アポリネール
むやみと読まれるだけ、社会的にはそれほどのインパクトは持たないか、といえばそうなるのだが、それならば、ほかは捨ててなぜこれを取り上げたのか?

特にアポリネール。
その絵画評論では、ピカソや、マリー・ローランサン、マックス・エルンストなど、現代画家を浮上させて、現代美術を切り開いた人。
詩もまたこれまでとは異質の詩編で、詩の世界を一変させ……と活動範囲は多岐にわたるのを、なにもたった1晩で金欲しさに書いたポルノ本をとり上げることもない、と言われそうだが、これは彼のもう1つの仕事、マルキ・ド・サドの発見に直結していくという点で、見逃せない。

生涯の大半を牢獄で送った16世紀のサド公爵、
誰もが読解できないまま捨ておかれた彼の哲学をアポリネールは若く美しい貴公子プリンス・モニイ・ヴィベスクに装填して、送り出したのだ。

17世紀、フランス貴族の城館の奥で誕生、埋もれ忘れられたままの古色蒼然たるサドの奇怪本は、華やかな蕩児の冒険物語として新たな生を得て現代に復活、ダイナミックに走り出し……
こうして初めて、ヨーロッパ・ドラゴンが、in the Sea、海の中から浮上したのだ。
 
 
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エミリ(カマキリ)ブロンテ

dra2-yokoku_002ドラゴン下巻5章には「嵐が丘」作者、エミリ・ブロンテが登場。

聖女テレサとも比較されるエミリながら、ドラゴンの目は節穴ではありません。

かばりと皮を剥ぎ、中から取り出したのが、このかまきり女、聖テレサならぬ、聖エミリ。
 
 
 
片目をつぶっているのに、注目してください。
喰いながら次の獲物にウインクしているのです。
食われているのは誰ですか?
まずはジョルジュ・バタイユです。
悲鳴も上げず男たちは嬉しく楽しく食われて行くのでした。
 
 
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