妖精珍種2 マットヘルスクラブ妖精ちゃんたち駅前2号店

何のために書くのか?


さて話は英国ではなく、日本国である。
自分探しとか真実追求とかで、各という人が多いが、
自分なんて知ってどうなるものでもない。
うんざりするのがオチ。
真実も同じ、食ってうまいわけはなし、そんなもの追っかけるはずがない。
むしろ逆。
自分から離脱したいのではないか?
 
まず自分は見ない。
真実も無視、
ぱっとしない自分から離脱してパットする別の人物に変貌する、
または変貌しようとしてシシとして文字を書き連ねるのだ。

明治のエリート漱石ならんとして、
19世紀パリを闊歩する若きランボウになろうとして、
あるいはすでになったつもりで……とか。
離脱の解放感、物まねの喜び、ここに極まるのである。

ともあれ、詩編たるものどういう辛い苦しいものを、
書き連ねていたとしても、裏には、こういう嬉しい楽しい事情があるのだ。
 
物まねは楽しいだけではない、
物まねの方がよほど安心して読んでもらえる。
たとえば、歌謡曲。
 
物まね専科のコロッケを見るがいい。
アマタの歌手の歌い方から、表情まで、
しっかり細かくまねをして、大受けに受けて何億とかの豪邸を建てたそうだ。
 
物まねはする方も快適だが、聞く方も快適なのだ。
元々はかって大ヒットした曲。
なじみの旋律で、まずは無事に着地するはず。
安心して聞いておられる。

本物はこうは行かない。
聞いていて不安になる。
安全第一、無事が一番の昨今では、
どこもかしこも物まね一色、
本物が出る幕がなくなってしまった……かとさえ思われるが、
にかかわらず、である……漱石だの、ランボーだのは、介在させない。
自分一個を押し通す、
なにが何でも自前で、押し通すのが、たまにいるわけで、
これが細田傳造。
 
書くのは目前の事実。
過去ではなく、今の事実。
今の自分自身。
なにも風光明媚な富士山麓まで、
都会の雑踏やらゴミ屋敷を持ち込むこともあるまいし、と思うだろうが、
ここが傳造、これこそが傳造たるところ、
ワケのわからん無頼のカタマリとして、
所かまわず、無頼の詩をはじき出していく……
見事アッパレ、細田傳蔵なのだ。
 
 

「シャチョウ、ヘルス」


新宿の裏通り、深夜、背後からこう呼び止められた。
振り向いたが誰もいない。
こちらは女性、大柄、かっぷくはいいし、
男性と間違えられることの多い戸沢タマさん。

立ち止まって目を凝らすと、いかにも真面目、
しかっり真面目、どこを切っても真面目しか出てきそうもない
まさに、「真面目課長」という風情の男が、
ビルとビルの陰に潜んで、ひょいと出たり引っ込んだりしている。
 
「社長、ヘルスは、いかがですか?なんなら今からお連れします」
 
ちょいと裏通りに入れば陽気で楽しい天国があるのだ、
そこでは、天使たち、それも妙齢の麗しの妖精たちがワンサカ待っている。
 
ちょいとした金で、誰でも生きながらこの天国に遊ぶことが出来る。
この天国でのひとときを生き甲斐にしてる人もいるだろう。
カンバセ悪く、心映えもイマイチ、
その昔なら生涯「女」のオの字さえ拝めなかった男でさえ、
ちょいとの小金をこの女天国に遊ぶ事が出来る。

よくぞ経済大国、
風紀ビンランの日本に生まれてきたと涙する男も多いのではないか?

西欧天国は違う。
神様といえば、要介護3度一歩手前の白髪爺さん。
それにへばりついて、でっぷり太りまくった赤ん坊天使たちが
ぞろり、ひしめいて浮かんでいる。
言わずもがな、彼らは皆、糞尿垂れ流しである。
こんな天国なんぞ、うっかり迷い込んだら、何という苦労だろうか!
こんな所には、紙おむつ業者以外は誰も行きたくはない。
 
西欧文明、ちょっと見は、カッコいいのだが、
よくよく精査すると、簡単じゃない。
明治以来、詩も小説も西欧権威の物まねに死力を尽くしてきたが、
さてその果てはどうなるのか?

ここは歌謡曲とは違う。
コロッケみたいに御殿は建てられない。
待っているのはどこまでも無限に続く糞尿満載の汚物天国、大変である。
 
物まねは楽しい、うれしい、読んでいても安心……と呑気にしていると
あら大変、とんでもないところに行ってしまうのだ。

だから細田傳造は、自前で行く。
自前の天国をしっかり掴んではなさない、
西欧天国を寄せ付けないのだ。
 
自前の天国、「マットヘルスクラブ妖精ちゃんたち駅前2号店」を
どこまでもどこまでも、がっちり抱えて今日も行くのである。

戸沢タマ画:「マットヘルス妖精ちゃんたち2号店」
戸沢タマ画:「マットヘルス妖精ちゃんたち2号店」

妖精珍種1 細田妖精

支倉隆子戯曲「洪水伝説」は、全国各地を公演。
もう11回目になるが、1回ごとに趣向を凝らして飽きさせない。

第11回・洪水伝説

富士吉田市の富士山駅から徒歩10分、
画廊兼喫茶店での公演では、最後にリレー詩、
数人が同じタイトル「妖精」で、1編ずつ朗読したが、
それぞれの妖精がそれなりの妖精で面白かった。
以下は細田傳造さんの「妖精」。

細田傳造「妖精」

この妖精は、マットヘルス駅前2号店のお嬢さんたち。
ヘルスの妖精たちを自宅に呼び込んでのらんちき騒ぎで、気を吐いている。
ちょいと手強そうな妖精だが、ひょいと消えてくれるところがいい。
ここが妖精の真骨頂だ。

奥さんはこうは行かない。
ガンとして消えない。
しぶとく長々と亭主をいじめ続けるのも多い。
だが、いじめてくれる女が皆無を言うのもちょい寂しいもの、で
ドカンと駅前ヘルスから借りてきたという算段だ。
こっちが案外やすあがりかもしれない。
 

詩といえばまずは悲劇。
ヨーロッパ上層階級の学問のながれの中を泳いできた西欧詩篇は、
深遠かつ高雅な古代ギリシア、ローマ文学がお手本。
目の前の事実は書かない、繁栄も書かない。
だから、こういう楽しい詩は珍しい。滅多にお目にかかれない。
18世紀マウンドビル以来か?
(というと大げさに聞こえるが、本当にこの類は見かけないのだ)
 
売り子
 

マウンドビル


マウンドビルの場合は、ぐっとえげつない。
あくどいまでの事実であり、とことんの繁栄、
うんざりするまでの繁栄である。
そこまで突き進む。
 
何せ長い、細田詩編の100倍くらいか?
延々と続くのだ。
次から次に事実が並び、繁栄はとことん極まって、
それでもあきずに、またその先へと進むのだ。
 

作者マウンドビルは本職は医者兼理髪師、
国籍はオランダだが、金満王国英国で大ヒット、我も我もと読まれた。
だが、しっかりした方々、上層のお歴々は怒りまくり、
特に教会。
しつこく長々と真ウドビルと攻撃、裁判提訴する……
キリスト教では贅沢と貪欲が悪徳、
そればかりを書きまくるのだから、始末に負えない悪書ということになる。
 
ところが、お歴々の中に一人、例外がいたわけで、
この例外人が、この延々たるなかから、不変不滅の経済理論を、掴み取るのだ。
 
ご存じ、グラスゴー大学の哲学教授アダム・スミスの「見えざる手」だ。

アダム・スミス

すでに「道徳情操論」で、大ヒット、
令名すざまじく、アカデミーに出向くと
会員総立ちで出迎えたという大物中の大物が
この悪徳詩編に熱狂、ここからあの長々しい、
あまりに長々しい「国富論」を書き始めたのだ。
 
とはいえマウドビルの方は、何かをつきつめようとして書いたわけではない。
面白くなって延々とただ延々とつづけたのではないか?

ふっと気がつくと期せずして、不変不滅の論理、「見えざる手」を浮上させていたのだ。
 
えてして思った所には行かない。
時としてとんでもないところに行く。
 
これまた見えざる手であるが、
悪徳が善なる世界を築いていく様をありありと、
誰でも見える形で書き連ねたのだ。

嵐が丘

ースクリフは何処からきたのか?

本文で、一度ならず囁かれる……ということは、
出自を読者が簡単に辿れるはず、もしくは辿って欲しい、と作者は思っていたのか?

さてどこからか?
『嵐が丘』の主、アンショー氏は旅先から彼を拾ってきた……という、旅先とはどこか。

当時の英国陣は、植民地に出かけて荒稼ぎ、莫大な富を本国に持ち込んで、
それぞれが宮殿まがいの自宅を建立していた時期で、
これは姉、シャーロットの小説『ジェーン・エア』の雇い主と同じ。
おそらくは、港町リバプールから出向、中南米あたりに出かけていたかと思われる。

ジェーンエアの主にしろ、アンショウ氏にしろ、そこでも家庭を持っていた……
そこで、もうけた子供を、連れ帰った……

つまり、『嵐が丘』
ヒースクリフはアンショー氏の実子であり、
キャサリンとは実の兄妹……こう読者は推測するとみて、
まずは、近親相姦の徹底否定のために書かれたと推測される。

エミリには、肉の愛を徹底否定する「愛」を提示する必要があったのだ。

つまり『嵐が丘』の目的である。
私たち兄妹の愛は、つまりブランウェル・ブロンテと、エミリ・ブロンテの関係は、
たとえ恋愛であったとしてもプラトニックな恋愛である……
この釈明のためにエミリは書いたのである。
 
 
当にエミリは全文を書けたか?

と疑惑もあるのだが、それは置いておくとして、
エメリには緊急に出版する必要があったわけで、
例え誰の作であろうと、とにかく緊急に自身の名前で、
自身が書いたとして出版する必要があったのだ。

エミリのたちの父親、ブロンテ氏は、アンショウ氏のような商人ではない。
人々の尊敬を集め、それなりの政治活動も行っている牧師館の主である。
その子弟が相互に「みだらな肉の愛」に耽っていたとなると、いったいどうなるか?

これは、まずは『嵐が丘』冒頭の宿泊した旅人の夢の中に登場、
怒り狂って押し寄せる会衆に教会がさんざんに踏みにじられる光景となって登場する。
この恐怖がエミリを終始支配し、兄ブランウェルを非業の死へと導いていくのだ。

「牧師館での子弟相互の淫らな肉の愛」……秘められていたはずを、
エミリは、その前年に赤裸々に書き込んだ詩を出版してしまっていた……
何としても、これを打ち消さなければならない……

つまり問題は3姉妹の詩集である。
エミリは、自身の実体を、ここに書き込んでしまっているのだ。

エミリは、姉シャーロットの3姉妹での詩集出版に猛烈に反対した挙句、
シャーロットに屈して出版はしたものの、大幅に手を入れて改作、その痕跡を消しさっての出版、
またその詩集、ほとんど売れていないのだから、誰も読んではいない、
そういう心配は無用なはずを、まだまだ恐怖に駆られていたのだろう。

詩集の痕跡を消し去らねば……

エミリはこれで動いていく。
普通ならこう売れなければ出版はしばし諦めるものを、エミリは逆。
早急に小説を執筆、今度は自身が出版社に出かけて出版交渉、刊行したしまうだ。
 


 
『ドラゴン in the Sea』上下巻にわたっての『嵐が丘』。

その作者は誰か? また、上記のような近親愛の顛末は電子書籍版の補注に詳しいのだけれど、
最近になって、牧師館の資料ほか、広範囲の公文書から、
父親ブロンテ師と長子ブランウェルの資料を大量発掘、
父とともに、政治活動も積極的におこなった闊達有能なブランウェル像が浮上している。
バカ、ダメ扱いのブランウェルだが、
最後まで優秀有能な友人たちに恵まれた卓越した人物であったかと思われる。

家族で決定、ブランウェルに画家修行をさせたのだが、
画家で経済的に自立するのは現代でも無理、貧乏なのは当たり前でる。
世間知らずの3姉妹に貧乏をさんざんにバカにされ、いじめ殺された……という彼の友人の意見も正しいと思う。

本当の作者はエミリではなく、兄ブランウェルである……これも彼の友人の言葉である。
これも半ばは正しいのではないか?
 


 
てさて問題は、エミリ灼熱の恋である。

プラトニックではない肉付きの愛である。

エミリ死後、姉シャーロットは、エミリの日記小説他、
大半を焼却して、それをたどれないようにしてしまったが、
妹アンとの共作長編小説『ゴンダル』には、
半ば焼却されたとはいえ、一部は残存、ここで見ることができる。

本(嵐が丘)を誰が書こうと知ったことではない。
輝かしい灼熱の愛、エミリはこの愛の思い出に殉じたのだ。
 
 
 
参考


『ドラゴン in the Sea 上巻』電子書籍版
絶賛販売中です。
こちらもぜひご参照下さい。

本を読む

韓国、中国問題。
TVでの喧々諤々パネルディスカッションに違和感があった。
とはいえ、よくはわからないので
図書館で日経新聞二カ月分をまとめて読んだ。

「今は日経新聞よ、これを読まなきゃ」
という人が最近、周辺には多い。
確かにTV世界とは一線を画している。
日経書評欄から、以下を購入した。

①『戦争という見世物:日清戦争祝捷大会潜入記』 木下直之著/ミネルヴァ書房刊
副題の「日清戦争祝捷(しゅくしょう)大会」とは、1894年、
日清戦争に大勝し、上野公園で信じられないほど盛大に催された
祝賀祭典のこと。

戦国写真画報付録東京市祝捷大会ポスター

写真は「東京市祝捷大会」のポスターだが、
この大会というのが、なんとも華々しい。
敵味方の兵士に扮した人々が大挙、不忍池に飛び込み
海戦の真似事、模擬戦争を展開。
清国、軍艦の巨大ハリボテが撃墜され、大歓声、花火……
それを当時の閣僚ほか、今でいう都知事まで、お歴々が観戦……。
皆で戦争を楽しんでいる。

もう1つは週刊文春書評から。

②『九月、東京の路上で』 加藤直樹/ころから社刊

『九月、東京の路上で』

関東大震災の最中、東京での韓国人虐殺事件。
当時の目撃者の記録を数多く紹介している。
例えば芥川竜之介が、かの悪名高い自警団の
一員となっての記録とか、初耳の話が多い。
菊池寛の切って捨てるような明快な見解とか、
鮮やかだ。

①、②の双方で驚いたのは、私たち日本人の勇ましさというか、
戦争好きというか、残酷志向……これがすざまじい。
イガイガボンでは、『豚志向』というミニ画集を出しているが、
果たしてその裏は残酷志向だったのか……。
強国日本、それも狂的強国日本を浮上させている。


夏目漱石に『満韓ところどころ』という紀行文がある。
漱石が満州に出かけての紀行文で新聞に連載されたもの。
古き中国の不可思議な魅惑をチラリと垣間見ることができて
胸踊らせたが、漱石自身の感想は、「汚い」だの「貧乏」だの、
イマドキのイジメ中学生と同じレベル、それだけ。

せっかく中国の遊郭、昔の日本でいう赤線地帯を訪ねているのだ。
この遊郭に二、三泊して、中国庶民の神秘の奥の院を
記録してもらいたかった。

――ボロボロの恰好の食うや食わずの男たちが、日がな一日、
必死で、ウグイスの美声に聞き入って動かない……
幼い美しい遊女と、遊郭に響きわたる銅鑼……

働け働けの中国共産主義が席巻する前の中国風景がちらり、
これをもっと知りたかった。


漱石といえば、イガイガボン新刊『ひとを千人』で、
そのものスゴい威張り写真に注目している。
皇帝とか王様とかでも、ここまで威張った写真は珍しい。
匹敵するのは、ルイ16世王妃、マリー・アントワネットくらいか?
当時、読売新聞文芸欄の主筆として漱石を訪ねた正宗白鳥も
漱石のあまりにもの威張りようにびっくり仰天の記事を書いている。
漱石のこと、丁寧にみれば、様々魅惑もあったろうに
「威張り」に隠れて何もかも消えていたのだろうか。


威張るのは、おおむね油断からである。
先々のことを考えると、そうそう暢気にいばってはいられない。
先々のことに手を打ってないから、とんでもない不幸にも見舞われる。
マリー・アントワネットは若くして首をちょんぎられたし、
漱石も、日夜、胃痛に悩み、五〇代の若さで死亡。
痛い痛いと苦しむ漱石の記述を読むと、こっちまで
あっちこっち痛くなってしまった。


最近のTVなどで見る韓国蔑視も、一つには
漱石風の威張り癖から来ているのではないか?
つまりは、先々を考えない無思慮からきているのではないか?

この無思慮が、中国侵攻の暴挙を導き、同時に
世界世論の日本人嫌悪を巻き起こし、一直線の敗戦、
大量戦死者の悲劇と前代未聞の経済的損失へと突き進んでしまった。
先々大損をしたくない人は、①木下直之と②加藤直樹を買って読むベし。


再び日経新聞。
日経紙は、セブン銀行の安斎隆氏の読書遍歴として8冊を紹介している。
セブンアイとなってますます絶好調のセブングループの親分かな?
ともかくその8冊の中から2冊。以下を購入したい。

・『上海時代』 松本重治/中央公論社
・『日本の禍機』 朝河貫一/講談社学術文庫

女人成仏

パンチャタントラ
梅原猛『法然の悲しみ』は、特に母親鎮魂ための女人成仏に注目している。
仏教での「悪」と言えばまず女性。
釈迦も美しい妻を捨てる事から始めている。
法然が師と仰ぐ中国仏僧、善導は特に女嫌い。
女性恐怖症に近い。
この善導をおしいただく法然のこと、悪人といえば、まずは女性が念頭にあったはずだ。

法然の悪人正機説は、一般的悪人の成仏に加えて、この女という「悪人」もまたしっかりと成仏させてしまう。
となるとどうなるのか。
妻帯OKなど日本独自の仏教へと変容。
親鸞みたいに女犯の罪などクヨクヨする必要もなくなって、実に重宝便利だが、それだけでなく思考スタイルとして、世界に例のない哲学となるのではないか?

主義主張、宗教も、まずは「否定」をバネに浮上する。
民主主義なら、君主主義やら独裁政治の否定、キリスト教ならそれまでの多神教やユダヤ教の否定……。
当初は旧弊が一掃され、ありがたいのだけれど、必ずそうではないものの迫害を伴うもの。
民主主義だから安全と呑気に構えていたら、反民主主義の国とされたばかりに、雨霰と爆弾投下、殺戮専科となって民主主義なんぞ吹き飛んでしまっている。

法然仏教には、まずは「否定」がない、「悪」がない。
主義主張に付き物の攻撃力が削がれている。
悪の征伐なしの安全な思考として、法然仏教はもっと注目されてもいいのではないか?

 
インドの悪女


パンチャタントラ
パンチャタントラ
『ドラゴン6章』では、古代民話「パンチャタントラ」から、悪女を登場させ、その悪女に堂々たる悪の理念を喋らせているが、ちょうどお釈迦様の国の古い古い民話、当時、女性はこういうものとされていたのかもしれない。

法然選択集には、これら悪女の描写に似た記述もあり、女人成仏もひょっとするとこの古代インドの性悪女性を念頭に置いての教説かとも思われたのだが、法然の悪人は、どこか南国風、カラリと明るいのだ。

親鸞、歎異抄での悪人は、やむにやまれず悪事をなしたとか、どこか悲壮感が漂う。
親鸞としては、これぞ師匠、法然の根本思想、より一層強調したいと、ガンガンの劇的発言となったのだろうが、元々の法然発言は、もっと広やかなものではなかったろうか。

法然にいう悪人は、取り立てての事情もないままに元からの悪人。
悪こそが人の本性。だから悪が「正機」なりとケロリの風情。
これはもう、今世紀の劇的発見、リチャード・ドーキンス、悪の遺伝子の世界である。
800年も前からそんな土俵に平然と座っている。

悪人正機説では悪人がいなくなってしまう。だから地獄もない。
死後の地獄行きを恐れて貴族たちは広大な所領を寺に寄進、その土地を耕す農民達もしっかり年貢を奉納してきたが、地獄がないのならもうその必要はない。
他のどの教説より、よりいっそう旧仏教の経済基盤を脅かす教説として、バッシングを受けてきたのだろうが、ともかくあの恐ろしい地獄を、閻魔様もろとも、バッサリ消し去ってくださったのだ。
何ともありがたいこと、特に悪人の方々は、法然さまに感謝しなくてはそれこそ、バチが当たるだろう。

一世紀、ローマ帝国の凄惨なキリスト教迫害への怨念が、新約聖書を作り出したと、D・H・ロレンスは言う。
書物だけではない、重大な事象の裏には、消しがたい何らかの怨念がある。
梅原猛『法然の哀しみ』は、非業の生に沈んだ母への哀惜が法然仏教を導いたと説く。
法然仏教も又また怨念のたまものかもしれない。
だが母を思う故の怨念は、どこかロマンに満ちて美しい。

なんだかんだとはいえ、私たちの時代は殺人鬼の時代である。
清楚で余りにも善良な母親に育てられた清廉な青年ヒトラーが正義を求めるままに史上最大最悪の殺人鬼へと変容した時代を生きてきたのである。
日本殺人鬼、机竜之介またヨーロッパ殺人鬼、プリンス・モニーは、20世紀ドラゴンを語るには必須不可欠のアイテムかと思われる。
 
 
ドラゴン in the Sea 上・詳細ページ


ドラゴン in the Sea 下・詳細ページ

ドラゴン in the Sea 上「はじめに」

ドラゴン in the Sea 上 阿賀猥×中本道代×戸沢英土
ドラゴン in the Sea 上 阿賀猥×中本道代×戸沢英土JO5の流れを受け継ぎ、満を持して登場した『ドラゴン in the Sea 上』。
今回は、まえがきを全文公開いたします。
 
なぜタイトルが「ドラゴン」なのか。龍にも色々あるのに、なぜ「in the Sea」、海の中なのか。
ちょっと長めですが、ご一読頂ければ幸いです。
 
 
 
 
 
 
 
 
はじめに


阿賀猥
 

その昔は神様といえば蛇ないし龍。
世界各地で祭られていたようだ。
稲作農耕の日本では、水の神様として龍神信仰が今も各地に点在、なにかとドラゴンはなじみ深いが、蛇ないし龍が王家の妻として登場しているのに注目した。
 
妻は妻でも刺身のツマのようではなく妙に大きい。
たとえば神武天皇の祖父山幸の妻、豊玉姫。
彼女の産屋が宮崎県の鵜戸神宮に残っているが、八尋(約十五メートル)もの巨大蛇であった。
海神ワタツミノミコトの娘で、出産後は子を置いて独り、海に帰っている。
その置き去りにされた子供、つまり神武の父、ウガヤフキアヘズもまた豊玉姫と同じく海神ワタツミノミコトの娘、玉依姫と結婚している。
おそらくは彼女もまた巨大蛇であったろう。
 
環太平洋ではカンボジア。
アンコールワットも王宮であると同時に巨大蛇ナーガの館。
巨大蛇を妻として毎夜その妻に仕えるという責務が王にあった。
恵みの雨を降らせるありがたい優しい龍ではない。
海を動かし陸を壊す強暴巨大なドラゴンの存在があり、この対策が国家的規模で最重要の課題としてあったのだろう。
海に従う、海を祭る、という形で王家との婚姻がなされたように推測される。
 
特に山幸は、龍宮からの帰還に際して玉手箱ならぬ潮満瓊(シオミツタマ)と潮涸瓊(シオヒノタマ)の二つを海神から貰い受けている。後者は海の水を引かせる働きをし、前者は海の水を溢れさせる働きをする。
まさに津波対策である。
先史時代、環太平洋地帯は今と同じく大津波のすさまじい惨禍を受けたことがあり、その記憶がこれらの土台にあるかと思われる。
 

本稿開始は七年前の二〇〇四年、思潮社小田久郎氏からの電話が発端。
私は当時の新聞記事、
 

「AV女優の志願者が急増している。
 それも旅行会社勤務の女性が多い。
 彼女たちは旅に出ようとしているのではないか?」

 
について、喋った記憶がある。
彼女たちは不特定多数に下半身を開くことで、普遍への道を探ろうとしているのではないか?
そういう目線から世界を見直すことができるのではないか?
そこから新しい広やかな世界へと抜けることが、できるかもしれない。
 
低いから見えないということはない。
低きに低き視点、それゆえにこそ開ける世界があるはずだ。
天をかけるドラゴンではない。
地の底をくねり、世間の塵芥の下、汚泥の中を転びながら、這いながらも、なおも生き続ける私たちの中のもう一つの私「ドラゴン」について、小田久郎氏に奇妙な私信を書き綴ったことがある。
 

前半は1章から3章、ヨーロッパの底の部分から、世界を見渡していく。
国富論がその基盤に抱え持つ長篇詩「ブンブン不平を鳴らす蜂の巣…」、エミリ・ブロンテが「嵐が丘」に隠蔽した奇怪な愛、そしてヒトラー。
雨樋の裏、教会の椅子の裏に彫り込まれた小さな豚の絵から、ホロコーストを追う。
 
後半は4章から7章。
法然、親鸞の思想を現代ロック、デビッド・ボウイ、マリリン・マンソンの歌詞との近似に注目、日本仏教の過激な起源を探る。
その起源、大乗仏教の元祖龍樹の見事な詩行「中論」、そしてそこを貫流するレンマの論理。
西洋ロゴスの論理を軽やかに切り崩していくレンマ、レンマは殺人鬼机竜之助をまた怪物エミリ・ブロンテを許容できるのか。
かくて最後に龍の論理。論理のすべてを許容するかに見えてあるときは一切を破砕する龍の論理。
言語を持たないもの、明確な姿をさえ持たないものたちの無念とその意思を抱え持つ龍の論理、つまりは大自然の意思、これらを感知できるのかどうか?
 

私たち対談者三名はかつての山幸のように、まずは海へと潜ることで作業を開始した。
廃棄された資料、無視された過去の事実を拾い起こし、探ることでドラゴンの意思を読み解こうとした。
キリストの愛、釈迦の明晰が覆う固い強固な地層を壊し、その下にあるものを見ようとした。
 
対談者はそれぞれ資料を持参。
相互に読み合わせながら作成、話題が多岐にわたったため、多くの専門分野の方々に点検を依頼した。
 
長野県の山中、昆虫を追う筑波大学研究員福井眞生子氏、同じく筑波大学物理学研究者、また現代企業最先端を生きる方々、仏教研究者の方々など、二十名以上の方々から大量の資料もいただき納得のいく補正をすることができた。
 
特に上巻は3章経済学を小林健吾氏に、
1,2章を梅原猛氏に点検を依頼、梅原氏には病気静養中にかかわらず、次々に未完成原稿を読破いただき
 

「過激だがものすごい面白さ、あなたはニーチェを思わせる」

 
など、嬉しいエールをいただいた。
ここに御礼を申し上げたい。
 
 
ドラゴン in the Sea 上・詳細ページ


ドラゴン in the Sea 下・詳細ページ