詩の虚言朗読会『恥』

2014朗読会_「恥」

3月8日、山岡遊の第二回・詩の虚言朗読会『恥』に参加した。


会場は「カフェ・ギャラリー・シャイン」
埼玉県の、さいたま新都心駅の隣、与野駅で下車、
西口から左へ向かって徒歩30秒ほどの場所。

朗読は、杉本真維子、下川敬明、伊集院昭子、山岡遊、阿賀猥。

途中トークコーナーがあり、長谷川龍生も参加、にぎやかな夜になった。
まずは、山岡遊が311の原発被害から、東電を話題にした。
さんざんの害毒をまき散らし、大勢の人を悲惨の死に追いやった東京電力。
彼らの卑劣な言い逃れ、悪辣な隠蔽ごまかしは、世間をアッと驚かせた。
恥知らず……とはまさに彼らのための言葉。
「恥」を語るなら、まずは東電から、ということでの蓋開けか?


国をあげて死者を悼む。
全国、善男善女は一斉に声を上げて悼む。
文人詩人はここぞとばかり、身を振り絞って慟哭の書を書き連ねる。
なぜ、今頃?

危険は分かっていたはずだ。
特に原子力発電、亡骸を埋葬さえできない、恐ろしい悲劇、
そこまで泣くエネルギーがあるなら、なぜ事前にその危険を歌えなかったのか?
それ以前は知らんぷり、今頃になって泣きわめいても遅すぎる。
恥知らずといえば、これもまた、そうではないのか?


韓国に泣き屋、泣き女、という商売がある。
親族に代わって葬式で、ド派手に泣きまくって金をもらう。
家族親族は泣く力もない。明日をどう生きるか、お先真っ暗で黙り込む。
代わりに泣きまくる商売である。

嘆くのは簡単である。収益になる。
だがそんなことでは、死者は戻らない。
遅れに遅れた復興建設が早まる事もない。
被害者は住む家もなくて、泣く場所もない。

興遅延


住居は普通は1年以内で建つ、これが数年もかかるという。
なぜそこまで遅れるのか? 驚くべきことだ。
全くの防災無策のままに放擲していた東電内部のすざまじい頽廃、
隠蔽ひたすら隠蔽できた知る人ぞ知る東電内部の異様な腐敗と愚劣が、
東北復興メンバーの内部にも蔓延しているのではないか?


泣くのは簡単である。
だが摘発は簡単ではない。儲かりもしない。
それどころか、職をさえ失いかねない。うっかりすると命さえ落としてしまう。
だが恐るべき災厄を生んだ病根を探り出し、
その病根を叩きだす、これなくして復興はできないだろう。
災害に続いて、底なしの東電腐敗が東北を覆う。暢気に泣いてる暇はない。


泣き女といえば、遙か昔、ありし日のユダヤ国のユダヤ戦史を思い出す。
ひたすら嘆くばかり、誰も咎めない。不幸の源を摘発しない。

ひたすらの善、ひたすらの正義の民、ユダヤ……ユダヤと日本はよく似ている。
双方、20世紀、かたや600万、かたや300万の民をしっかり殲滅させられてしまった。
双方、正義と良心の国。常に正義と良心を唱道する。同声同音で、仲良く唱和する。
ある時は、ファシズムの旗の下で、ある時は民主主義の旗のもとで。

ひょっとして「正義」は、
又「良心」とは、
恐ろしいモノではないだろうか?

ドラゴン in the Sea 下「終わりに」

ドラゴン in the Sea 下
ドラゴン in the Sea 下ドラゴン in the Sea、上巻に続き、今回は、下巻の末文を全文公開いたします。
 
ドラゴンの住処である海、そこから派生する思想。
龍樹と仏教、最後は詩人、梅田智江の詩篇で締めくくります。
ぜひ、ご一読ください。


 
終わりに


 
 
戸沢 長々ドラゴン方式をしゃべってきましたが、
法然や親鸞の元祖、龍樹からそう名付けたんですか?
 
阿賀 いいえ、ずっと龍樹のことは忘れてました。
その昔、キリスト教が海へ突き落とした龍にちなんで、
ふっと、そう言ってみただけなんです。
でもドラゴンって、キリストをさかのぼること五百年、
ソクラテスの時代から、すでに海で暮らしていたみたいです。
 

学者であって知恵があるために
議論の一つの頭が切られれば
その代わりに無数の頭をつきだす海竜
(「エウチュデーモス」『プラトーン全集』木村鷹太郎訳 冨山房)

 
海を棲家とする海龍に例えているということは、
思考形式としては意識化されないまま、
無意識の海の中にたゆたっていたのでしょうが、
実際には当時のギリシャを支えていた
強力な思考形式だったのではないか?
 
阿賀 プラトンはこの龍は英雄ヘラクレスでさえ
一人では征伐できなかったほどの怪物。
我々ごときは、この怪物の正体を
掴むことさえできない、なんて言っています。
 
ソクラテスたちプラトン一派には、
捕えがたいほどの知性と力を持った
ある思潮なり思考システムなりが、
存在していたのではないでしょうか?
 
そしてその正体は、海に潜む龍のように捕らえがたく、
くねくねとくねりながら動くもので、
実際の思考システムなのかあるいは、幻覚として在るのか、
ソクラテスたちには、それさえ不明の恐るべきものではなかったか。
 
戸沢 まさに龍樹ですねえ。
なんせ龍なんですから、インドだって一泳ぎ、
ちと上陸して龍樹へと化けたのかもです(笑)。
 
阿賀 図書館に行くと、
最近、龍樹の関連本がよく貸し出されています。
相当に難解なものまで、数十年ぶりに復刻され始めたり、
いよいよ私たちは龍を必要とし始めたのですね。
 
龍樹については、特にその思考形式というか
思考システムにスポットをあて、
カント、ヘーゲル、アリストテレスなど
ヨーロッパのロゴスの哲学と対比して解説した
山内得立『ロゴスとレンマ』がありますが、
西洋とは異質ながら、西洋思考システムを包含しつつ、
かつ凌駕していくものと見ています。
 

ロゴス以外に論理がないというのは
西欧思想の越権であり倨傲でさえある。
(前掲『ロゴスとレンマ』)

 
戸沢 ロゴスの論理は言語が基盤。
言語に浮上する前の無意識にしろ、異次元にしろカットして始まる。
これじゃちと狭いですよね。
 
阿賀 そうですねえ。
今回は仏教の中でも特に浄土という異次元を
大幅に包含して成立した仏教思想をとりあげ、
これが市場システムなり、『大菩薩峠』などの読物の中を、
それとは感知されないままに這うように流れている、
と見てきたのですが、これらはヨーロッパ思想に拮抗する
重要な哲学ではなかったのか。
 
確かに、従来ほど単純な哲学でも、綺麗な思想でもありませんが、
誰もが把握できて、そこを流れることが出来る
有効な哲学となり得るように思います。
 
今回は、今まで未解読であった女性詩人の詩篇をとりあげ、
その解読も試みました。
龍的な人物、女性の思想家なりが
浮上してくるのではないか、と思っていたのですが、
龍樹、法然、親鸞、そしてボウイにマンソン……と、
案に相違して最後は男ばかりの登場となってしまいました。
 
これではちと淋しいので、最後は女性詩人で締めくくりたいと思います。
梅田智江「妖花記」から。
多頭の蛇、聖書黙示録に言う多頭のドラゴンのような花、
これが登場する後半部分です。
 

この花がもっとも激しく捕食をするのは、
月光の降る夜で、甘い分泌液と共に、ひときわ
強い芳香を放ち、花弁を震わすのだという。
その匂いは媚薬のように、
一度嗅いだら逃れることは叶わなくて、
哀れな犠牲者は、次々に花のなかに消えていくのだ。
それ故に一層その群落を広大にして、
じわじわと瓦礫の都市へと侵食していったのである。
飢えた人々が、この花の甘い蜜を
どれほど貪り食らおうとも、
彼女らの繁殖力の凄まじさの方が勝っていた。
すべてのものが死に絶えた都市の舗道に、崩れた壁に、
途切れた階段、風にはためく扉にさえ、彼女らは
多頭の蛇のごとく貪欲に、その根を伸ばしたのだ。
「それは残酷な眺めであった」
と、ハムプキンズ氏は記している。
上空から見ると、都市は死装束のように、
純白の花たちで覆われていた。
だが、懸命に生殖器を剥き出しにして、
絶叫するように、
月に向って一斉に翻ってもその花たちの
生殖器を必要とするものはなかったのである。
その虚しさゆえに
彼女らは戦慄的に美しかったというのだ。
(梅田智江 『変容記』)

 
エミリ・ブロンテのように天高く聳えたい人もいるでしょう。
でも私は地底のこのドラゴンの花々の方に自分を重ねてしまいます。
このように醜悪で、はびこっていくもの、
醜悪のゆえに強靭であるものとしての私を思います。
 
戸沢 この詩は、ひょっとして警告ではありませんか?
女性というより、私達、ヒトと言う種族の繁殖力の恐ろしさ、
繁栄がもたらす不幸を予言していませんか?
巫女たちの紡ぎだす詩篇はデルフォイの神託と崇められて
古代ギリシァの人たちは従ったといいます。
今、女性詩人たちが、無意識から繰り出す詩篇もまた同じ。
従えとはいいませんが、耳を塞ぐべきではないと思いますね。
 
阿賀 無意識や性など、今回取り上げたものは
ウロンなものとして捨て置かれてきたものばかりですが、
どうでしょうか。そこには科学や哲学などの学問では届かない
底知れぬ智恵が眠っているような気がします。
 
 
ドラゴン in the Sea 上


ドラゴン in the Sea 下

20世紀と殺人鬼(2)

sade

おそらくはサド、彼こそが、ヨーロッパ・ドラゴンが密かに隠しとおしてきた裏側、もしくは波間に沈めた尾っぽではなかったか?
サド発見をもって初めてヨーロッパ・ドラゴンは全容を現したのだ。
サド公爵の下に隠れ潜んでいた「嘘、悪、醜」の概念は、プリンス・モニーを得て、生き生きと胎動を開始、より巨大かつ強力なドラゴンとなって空へと浮上、空を泳ぎ始めたのだ。

あえて極論してみたい、むしろ真善美により近いものとして嘘悪醜の類を、置くべきもの、置かざるを得ないものではなかったか?
ホロコーストを思う時、防止策として、ふとそれを思う。

ドラゴン2章では、この連綿たる西欧哲学の具体化したものとしてナチス帝国をとらえ、その盟主ヒトラーが力説し、人々を魅了した「正義」という事象自体にも疑惑の目を向けている。正義とは何か?
ソクラテス以来、無傷のままに2500年を生き延びた真善美とは何なのか?

机上ではなく、実際の日常で、それらを他と分別して取り出せるのか?
真善美をそうでないものから取り出せるのかどうか。
愛の裏に死がはりついているように、善の裏には「悪」がはりついて、美の裏には「醜」がはりついて、そういう形で、同一のものとしてあるのではないだろうか?

私たちが、毎日の日常のなかで、「正義」を目ざすとどうするか?
すぐさま、それとは相反する殺害や抹殺の欲動が動き出すはずだ……いやまずは、それら「悪」が先にあるのかもしれない、
「悪」の発生と同時に私たちは、それらに善の衣装をつけ始め、こうして善への欲動が始動する……という流れではないか?
表裏一体のものとしての正義と殺害、また善と殺人があるのではないか?

ホロコーストとなると、ヒトラーという人物の特異性を言う場合が多いが、それにしては余りに多くの人が殺害に手を染めている。
正義への志向は、そのままユダヤ人殺害となって稼働したとみたほうがいい。

私たちの表面の意志とその裏にある実体。私たちはその実体を知ることができないままに、けれど結局はこの実体に引きずられて動いていく。
ドラゴンでは、発言者の自説はさておき、カタログ形式で自説に代わる各種の書物を引用紹介していくが、そのスタイルでいうなら、法然にいう「内心と外相」か?
『ドラゴン6章』に法然の選択集から引用している。

表向きの外面(外相)が善人なら、それは悪心を内部に隠したため、だから内側の心(内心)は、悪をいっぱい溜め込んでいる、との説。つまり善人なら腹の中は悪人。反対に悪人ならば裏側では善人となり、悪人は正機と論理が進む。

つまりこのあたり、悪人正機説の基盤となるかと思われるが、ここで問題。
悪人正機説は親鸞、それも親鸞の根本思想とされているもの。それを『ドラゴンintheSEA』では法然としている事への質問が多くあった。

「ドラゴン6章」、「親鸞は法然をひたすら崇拝して、法然の教えをまっすぐ追った人で、悪人正機説なども親鸞の説のようで、実は法然が言い出したこと。彼独自のものではないのです」、この部分だ。

悪人正機説と言えば、親鸞の弟子、唯円による「歎異抄」、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」。
親鸞の言葉として記録され、親鸞思想の根本思想とされているもの。
だがこの同じ文言が、もっと早い時期に法然の言葉として「法然上人伝」に記録されているわけで、ここが発端。
こちらの作者は法然の高弟の中でも、法然最愛の弟子とされる源智。
梅原猛『法然の哀しみ』(小学館文庫)は、源智の書を見て、そのまま親鸞側が記録した、と推測している。その逆、弟子の言葉を先生が習う、ということはないので、この通りだろう。

歎異抄ではその解説、「たとへばひとを千人殺してんや……」のあたり。
こういう過激部分は親鸞ならではのもの。歎異抄によって、法然の悪人正機説が、命を得て現代に華々しく浮上したかと思われる。

千葉県佐貫町、神野寺には親鸞自身が滞在中に彫り上げたという親鸞像が残されているが、これはもうどこから見ても山賊の親分。目の玉ギョロリの親鸞で、いかにもいかにもこの面構えならではの発言と思えるのだが、そもそもの発端となる思念となるとどうだろうか、親鸞側の文書では、見つけることができなかった。

法然は逆。
先の選択集だけでなく、法語集にも悪人正機へとつながる言説は多い。

とはいえ、とんでもない教説である。悪人が正しい、悪人の方が正しいとなると、殺人鬼だの泥棒だのの方が正しい、となってしまう。
普通ではこういうセリフは、出てこないだろう。
両親をいわば悪人として惨殺された法然以外ではまず、発語されない言葉ではないだろうか。

なんとしても法然には悪人を成仏させる必要があった、悪人を「正機」とせねばならなかった……・法然とするならこれらすべてが無理なくおさまるのだ。
 
 
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ドラゴン in the Sea 上「はじめに」

ドラゴン in the Sea 上 阿賀猥×中本道代×戸沢英土
ドラゴン in the Sea 上 阿賀猥×中本道代×戸沢英土JO5の流れを受け継ぎ、満を持して登場した『ドラゴン in the Sea 上』。
今回は、まえがきを全文公開いたします。
 
なぜタイトルが「ドラゴン」なのか。龍にも色々あるのに、なぜ「in the Sea」、海の中なのか。
ちょっと長めですが、ご一読頂ければ幸いです。
 
 
 
 
 
 
 
 
はじめに


阿賀猥
 

その昔は神様といえば蛇ないし龍。
世界各地で祭られていたようだ。
稲作農耕の日本では、水の神様として龍神信仰が今も各地に点在、なにかとドラゴンはなじみ深いが、蛇ないし龍が王家の妻として登場しているのに注目した。
 
妻は妻でも刺身のツマのようではなく妙に大きい。
たとえば神武天皇の祖父山幸の妻、豊玉姫。
彼女の産屋が宮崎県の鵜戸神宮に残っているが、八尋(約十五メートル)もの巨大蛇であった。
海神ワタツミノミコトの娘で、出産後は子を置いて独り、海に帰っている。
その置き去りにされた子供、つまり神武の父、ウガヤフキアヘズもまた豊玉姫と同じく海神ワタツミノミコトの娘、玉依姫と結婚している。
おそらくは彼女もまた巨大蛇であったろう。
 
環太平洋ではカンボジア。
アンコールワットも王宮であると同時に巨大蛇ナーガの館。
巨大蛇を妻として毎夜その妻に仕えるという責務が王にあった。
恵みの雨を降らせるありがたい優しい龍ではない。
海を動かし陸を壊す強暴巨大なドラゴンの存在があり、この対策が国家的規模で最重要の課題としてあったのだろう。
海に従う、海を祭る、という形で王家との婚姻がなされたように推測される。
 
特に山幸は、龍宮からの帰還に際して玉手箱ならぬ潮満瓊(シオミツタマ)と潮涸瓊(シオヒノタマ)の二つを海神から貰い受けている。後者は海の水を引かせる働きをし、前者は海の水を溢れさせる働きをする。
まさに津波対策である。
先史時代、環太平洋地帯は今と同じく大津波のすさまじい惨禍を受けたことがあり、その記憶がこれらの土台にあるかと思われる。
 

本稿開始は七年前の二〇〇四年、思潮社小田久郎氏からの電話が発端。
私は当時の新聞記事、
 

「AV女優の志願者が急増している。
 それも旅行会社勤務の女性が多い。
 彼女たちは旅に出ようとしているのではないか?」

 
について、喋った記憶がある。
彼女たちは不特定多数に下半身を開くことで、普遍への道を探ろうとしているのではないか?
そういう目線から世界を見直すことができるのではないか?
そこから新しい広やかな世界へと抜けることが、できるかもしれない。
 
低いから見えないということはない。
低きに低き視点、それゆえにこそ開ける世界があるはずだ。
天をかけるドラゴンではない。
地の底をくねり、世間の塵芥の下、汚泥の中を転びながら、這いながらも、なおも生き続ける私たちの中のもう一つの私「ドラゴン」について、小田久郎氏に奇妙な私信を書き綴ったことがある。
 

前半は1章から3章、ヨーロッパの底の部分から、世界を見渡していく。
国富論がその基盤に抱え持つ長篇詩「ブンブン不平を鳴らす蜂の巣…」、エミリ・ブロンテが「嵐が丘」に隠蔽した奇怪な愛、そしてヒトラー。
雨樋の裏、教会の椅子の裏に彫り込まれた小さな豚の絵から、ホロコーストを追う。
 
後半は4章から7章。
法然、親鸞の思想を現代ロック、デビッド・ボウイ、マリリン・マンソンの歌詞との近似に注目、日本仏教の過激な起源を探る。
その起源、大乗仏教の元祖龍樹の見事な詩行「中論」、そしてそこを貫流するレンマの論理。
西洋ロゴスの論理を軽やかに切り崩していくレンマ、レンマは殺人鬼机竜之助をまた怪物エミリ・ブロンテを許容できるのか。
かくて最後に龍の論理。論理のすべてを許容するかに見えてあるときは一切を破砕する龍の論理。
言語を持たないもの、明確な姿をさえ持たないものたちの無念とその意思を抱え持つ龍の論理、つまりは大自然の意思、これらを感知できるのかどうか?
 

私たち対談者三名はかつての山幸のように、まずは海へと潜ることで作業を開始した。
廃棄された資料、無視された過去の事実を拾い起こし、探ることでドラゴンの意思を読み解こうとした。
キリストの愛、釈迦の明晰が覆う固い強固な地層を壊し、その下にあるものを見ようとした。
 
対談者はそれぞれ資料を持参。
相互に読み合わせながら作成、話題が多岐にわたったため、多くの専門分野の方々に点検を依頼した。
 
長野県の山中、昆虫を追う筑波大学研究員福井眞生子氏、同じく筑波大学物理学研究者、また現代企業最先端を生きる方々、仏教研究者の方々など、二十名以上の方々から大量の資料もいただき納得のいく補正をすることができた。
 
特に上巻は3章経済学を小林健吾氏に、
1,2章を梅原猛氏に点検を依頼、梅原氏には病気静養中にかかわらず、次々に未完成原稿を読破いただき
 

「過激だがものすごい面白さ、あなたはニーチェを思わせる」

 
など、嬉しいエールをいただいた。
ここに御礼を申し上げたい。
 
 
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『大菩薩峠』と芥川龍之介

今回の『ドラゴンin the Sea』の下巻にその発言をそのまま引用、掲載したが、芥川龍之介は『大菩薩峠』をあまたの文学書を差し置いて屹立する大傑作との
言葉を残している。
すべてが消える、大菩薩峠以外は残らないとも言ったそうである。
芥川の師、漱石も消えるのか? 鴎外も消えるのか?

介山は、これらの文学がよってたつ国家治安を許せなかったのではないか?
かれらの文学が希求する国家安寧と平穏をあくまで許す事ができなかった中里介山、彼の芯の部分が治安維持法、この法案の裏から透けてみえてくる。
治安を乱すために、介山は刺客机竜之介を、作り出したのだ。こういう形で治安維持法に対決したのだ。

tanizaki「改造」連載の中里作品『夢殿』は、谷崎潤一郎に絶賛された事でも有名である。
だが中里は、これを歯牙にもかけず無視、あたかも唾棄すべきもののように、対応している。敵は本能寺、治安維持法である、文壇の治安など、どうでもよかったのだろうが。

芥川の中里以外はすべてが消えるとの発言、最晩年の発言だけに気になるが、同時期に執筆された芥川の評論のどこにも類似の発言は見つけることはできなかった。
彼自身で記述したものの中にはないのかもしれない。
最後の評論『文芸的な、余りに文芸的な・・・』には、大衆文学としての項目はあるものの、わずか4行。取るに足らないもの、言う必要もないとでもいうような、書きぶりである。だが、なぜそのタイトル、「文学」ではなく「文芸」としたのか?
なぜ『文学的な、あまりに文学的な…』ではないのか?
大菩薩峠はどうなのか。『大菩薩峠』、これなら文学となるのではないか?

akutagawa自身の文学は単に「芸」でしかない。中里以外の全ての著作、自身の労作のすべても、単に『芸』として、いずれは消え去る・・・こういう思いが芥川をよぎったりはしなかったか?

谷崎潤一郎の絶賛を、唾棄すべきものとして、侮蔑をもって答えた介山である。
芥川身の作品の数々もまた、取るに足らないものとして、侮蔑の一閃で、却下……となるのは、必定だろう。
谷崎のもと、あるいは漱石の翼の下に生き続けてきた芥川、治安の側で、治安の翼の下に、ぬくぬくとしてあった自身の文学を、同じく唾棄すべきものとして、より一層唾棄すべきものとして、裁断を迫られたのではないか?
こういう危惧が、芥川を自死へと追い込んでいった……とか。

たかが新聞連載の大衆小説といってしまえば、それで終わる。
だが、図書館に真っ黒い手垢をつけた大菩薩峠が、それこそ、ところによっては数種類、並べられているのを見るたび、芥川の言葉を思う。
 
 
 
 
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奇怪本か?? ドラゴン下巻

ドラゴンといえば、空を駆けるもの、イガイガ本のドラゴンのように、海に潜ったのは少ない。
絵でいうとパウル・クレーの怪獣退治くらいか?
小舟の男が、長い槍で海から顔をのぞかせている怪獣たちを退治しようとしている。

Paul_Klee

ところで、この小舟に女が乗っていたら?
男ではなく女ならどうするか?

おそらく、槍を投げ捨てるだろう。
いちいち恐ろしい怪獣に刃向かったりはしない。
彼らが悠々と海を泳ぐのを眺めていた方が楽である。
怖い思いは押し殺してもそうした方がいい。

もし彼女が欲張りなら、どうするか?
せっかく見つけたドラゴン、見るだけではもったいない、なんとか縮めて持って帰れないものか、ちょいと縮めれば結構な現代アート、壁飾りにして売り出したり……と強欲頭をキリキリはたらかせる……にならないか?

今回の小舟には強欲女が3人、何食わぬ顔で竜をおだてて、ばっちり撮影、圧縮して持ち帰り小型化したもの……と私は見ているのだけれど、うまく圧縮できたのかどうか?かわいいドラゴンちゃんにできたかどうか?

ドラゴンなんか小型化しなくともいい、我が家にはすでに一匹、中型がいる、女房で十分……という人がいるかもしれない。
でも、海のドラゴンといえば、これはもう、あの恐ろしい「津波」である。
何とか小型化する必要があるのだ。

 
ドラゴン評


今までにない沢山の感想をいただいたのだけれど、上巻と違って圧倒的に女性。
上巻での男性ファンは、宗旨変え、沈黙スタイルに変わった人が多い。
で、まずは女性。
女性では、江夏名枝さんや北川朱実さん。素敵な感想をいただいた。
イガイガ・ドラゴンに予想もしない魅惑を発見していただいたりで、びっくりした。
ひょっとして彼女たちはドラゴンではないのだろうか?

男性では酷評?に注目した。
はじめは驚いたが、これが一番、正確なのかもしれない。
つまり竜の眺め方なのだが、きちんと正しい位置から、眺めているのではないか?

お二人ほぼ同じ感想なのだけれど、一人は作曲家の高橋芳一さん、もう一人は詩人の中川千春さん、「頭がグルグル混乱しました、よくもまあ、こんな複雑なこと、考えていられますねえ」
中川さんは、その上に奇書との評、かつ、目下のこのブログを「怪文書」とも評された。
仰天したのだけれど、見る人からみれば正にそうかもしれない。

 
怪文書の続き


で、以下怪文書を続けるのだが、ただ対談者(作者たち)は、絵入り図入り、優しい楽しい一種絵巻物のような娯楽本にしたいと喋り続けているのだ。
誰もが分かる、読めば漸次頭もすっきり整理されてくる……そういう重宝かつ便利な読み物を作ったつもりなのである。
ストーリーは次から次へと無理なく続いていくはずだ……だがふと遠望すると、どうなるか?特に善悪をポイントに全体を眺め渡すとどうなるか?

無差別殺人鬼、机竜之介一人ならまだ許せるのを下巻にいたるや、一万一千人もの処女を犯して殺害した凶悪無類の殺人鬼を大暴れさせた上に、絶賛を惜しまない……これはもう徹底的な悪人礼賛かと思いきや、そのまま利他主義専門、貧民救済に没頭した法然や親鸞へと突入、今度はたちまち利他主義に変心して、いじめにあえぐ学童を助けられないかと、思い悩む……。

悪人礼賛のようで、またまた逆走、まさに無茶苦茶である。
頭ぐるぐるになってしまうだろう。
いったい「ドラゴンintheSEA」は何を言いたいのか?何を主張しているのか?

思うに、一切の主張をしていないのではないだろうか?
書物がいちいち何らかの主張をする必要があるだろうか?
テーマは次々に変容、一切のテーゼもなし崩しに壊しながらこのドラゴンは海を進む。
でも私たちの日常はこういうものではないか?

A→B→C→D→……話は進む、ふと足を止め、A→Dを見たらどうなるか?
もう「→」ではつなげなくなっている。
だが事実はそう流れ、そんな風につながってグニャグニャと進んで行くのではないか?

話を元に戻したい、小舟の上の女3人に戻ってみよう。
彼女たちはドラゴンから、何らかの利得を得たいとして、ドラゴンを眺めているのだ。
ドラゴンに魅入られた風情ではあるものの、その実は最新技術をバッチリ搭載したカメラを隠し持ち、ドラゴン神の裏の裏まで見極めようと目を凝らしているのだ。

ドラゴンの主張など、聞こうとは思わない。古代神殿の巫女たちとは違う。
そんなことはどうでもいい。
海の波間に見え隠れするドラゴンの全容を何とかとらえたい。
海の奥までカメラを潜らせ、まずは全景を把握したい。
何らかの利得は、そこから、自ずから浮かびあがるだろうが、まずは、全容の把握が先決……このあたりが彼女たちの状況か?

ところが、いったい仮にも全容が把握できたとして、全容らしきものを視界に浮上させたとして、この私たちにそれを見る能力があるかどうか、である。
ただのグルグル巻にしか見えなかったりでは困るのだ。
何せ、ヨーロッパ・ドラゴンといえば、頭を9個もつけて古代ギリシャを泳いだプラトン竜。
これを初めとして、見るに耐えないものばかり、目を覆うしかないのではないか?

けれど、万事は慣れである。
ピカソのゲルニカだって、倉庫の壁にでも描かれたら、直ちに落書きとしてふき取られたことだろう。
モネの睡蓮だって同じ、睡蓮かどうかさえ分からない。
ここらにああいうごちゃごちゃした池があれば、管理不行き届きで、役人は処罰されるだろう。

だが、慣れてくれば別。
落書き風ピカソ絵から、見事な新型美女が登場したように、こちら多頭の竜ながら、なんせ脳味噌は9匹分、尋常ではないのだから、見事なエロス竜へとしっかり変容してるかもしれない。
無闇と多い脚ながら、そのうち目が慣れてどの1本がどう動けば、金が儲かり、どちらに跳ねれば災厄になるのかも、漸次、分かってくる。
まずは見ることであり、見て慣れることである。
 
 
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