ドラゴン in the Sea 下「終わりに」

ドラゴン in the Sea 下
ドラゴン in the Sea 下ドラゴン in the Sea、上巻に続き、今回は、下巻の末文を全文公開いたします。
 
ドラゴンの住処である海、そこから派生する思想。
龍樹と仏教、最後は詩人、梅田智江の詩篇で締めくくります。
ぜひ、ご一読ください。


 
終わりに


 
 
戸沢 長々ドラゴン方式をしゃべってきましたが、
法然や親鸞の元祖、龍樹からそう名付けたんですか?
 
阿賀 いいえ、ずっと龍樹のことは忘れてました。
その昔、キリスト教が海へ突き落とした龍にちなんで、
ふっと、そう言ってみただけなんです。
でもドラゴンって、キリストをさかのぼること五百年、
ソクラテスの時代から、すでに海で暮らしていたみたいです。
 

学者であって知恵があるために
議論の一つの頭が切られれば
その代わりに無数の頭をつきだす海竜
(「エウチュデーモス」『プラトーン全集』木村鷹太郎訳 冨山房)

 
海を棲家とする海龍に例えているということは、
思考形式としては意識化されないまま、
無意識の海の中にたゆたっていたのでしょうが、
実際には当時のギリシャを支えていた
強力な思考形式だったのではないか?
 
阿賀 プラトンはこの龍は英雄ヘラクレスでさえ
一人では征伐できなかったほどの怪物。
我々ごときは、この怪物の正体を
掴むことさえできない、なんて言っています。
 
ソクラテスたちプラトン一派には、
捕えがたいほどの知性と力を持った
ある思潮なり思考システムなりが、
存在していたのではないでしょうか?
 
そしてその正体は、海に潜む龍のように捕らえがたく、
くねくねとくねりながら動くもので、
実際の思考システムなのかあるいは、幻覚として在るのか、
ソクラテスたちには、それさえ不明の恐るべきものではなかったか。
 
戸沢 まさに龍樹ですねえ。
なんせ龍なんですから、インドだって一泳ぎ、
ちと上陸して龍樹へと化けたのかもです(笑)。
 
阿賀 図書館に行くと、
最近、龍樹の関連本がよく貸し出されています。
相当に難解なものまで、数十年ぶりに復刻され始めたり、
いよいよ私たちは龍を必要とし始めたのですね。
 
龍樹については、特にその思考形式というか
思考システムにスポットをあて、
カント、ヘーゲル、アリストテレスなど
ヨーロッパのロゴスの哲学と対比して解説した
山内得立『ロゴスとレンマ』がありますが、
西洋とは異質ながら、西洋思考システムを包含しつつ、
かつ凌駕していくものと見ています。
 

ロゴス以外に論理がないというのは
西欧思想の越権であり倨傲でさえある。
(前掲『ロゴスとレンマ』)

 
戸沢 ロゴスの論理は言語が基盤。
言語に浮上する前の無意識にしろ、異次元にしろカットして始まる。
これじゃちと狭いですよね。
 
阿賀 そうですねえ。
今回は仏教の中でも特に浄土という異次元を
大幅に包含して成立した仏教思想をとりあげ、
これが市場システムなり、『大菩薩峠』などの読物の中を、
それとは感知されないままに這うように流れている、
と見てきたのですが、これらはヨーロッパ思想に拮抗する
重要な哲学ではなかったのか。
 
確かに、従来ほど単純な哲学でも、綺麗な思想でもありませんが、
誰もが把握できて、そこを流れることが出来る
有効な哲学となり得るように思います。
 
今回は、今まで未解読であった女性詩人の詩篇をとりあげ、
その解読も試みました。
龍的な人物、女性の思想家なりが
浮上してくるのではないか、と思っていたのですが、
龍樹、法然、親鸞、そしてボウイにマンソン……と、
案に相違して最後は男ばかりの登場となってしまいました。
 
これではちと淋しいので、最後は女性詩人で締めくくりたいと思います。
梅田智江「妖花記」から。
多頭の蛇、聖書黙示録に言う多頭のドラゴンのような花、
これが登場する後半部分です。
 

この花がもっとも激しく捕食をするのは、
月光の降る夜で、甘い分泌液と共に、ひときわ
強い芳香を放ち、花弁を震わすのだという。
その匂いは媚薬のように、
一度嗅いだら逃れることは叶わなくて、
哀れな犠牲者は、次々に花のなかに消えていくのだ。
それ故に一層その群落を広大にして、
じわじわと瓦礫の都市へと侵食していったのである。
飢えた人々が、この花の甘い蜜を
どれほど貪り食らおうとも、
彼女らの繁殖力の凄まじさの方が勝っていた。
すべてのものが死に絶えた都市の舗道に、崩れた壁に、
途切れた階段、風にはためく扉にさえ、彼女らは
多頭の蛇のごとく貪欲に、その根を伸ばしたのだ。
「それは残酷な眺めであった」
と、ハムプキンズ氏は記している。
上空から見ると、都市は死装束のように、
純白の花たちで覆われていた。
だが、懸命に生殖器を剥き出しにして、
絶叫するように、
月に向って一斉に翻ってもその花たちの
生殖器を必要とするものはなかったのである。
その虚しさゆえに
彼女らは戦慄的に美しかったというのだ。
(梅田智江 『変容記』)

 
エミリ・ブロンテのように天高く聳えたい人もいるでしょう。
でも私は地底のこのドラゴンの花々の方に自分を重ねてしまいます。
このように醜悪で、はびこっていくもの、
醜悪のゆえに強靭であるものとしての私を思います。
 
戸沢 この詩は、ひょっとして警告ではありませんか?
女性というより、私達、ヒトと言う種族の繁殖力の恐ろしさ、
繁栄がもたらす不幸を予言していませんか?
巫女たちの紡ぎだす詩篇はデルフォイの神託と崇められて
古代ギリシァの人たちは従ったといいます。
今、女性詩人たちが、無意識から繰り出す詩篇もまた同じ。
従えとはいいませんが、耳を塞ぐべきではないと思いますね。
 
阿賀 無意識や性など、今回取り上げたものは
ウロンなものとして捨て置かれてきたものばかりですが、
どうでしょうか。そこには科学や哲学などの学問では届かない
底知れぬ智恵が眠っているような気がします。
 
 
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中也の神と花札物語

中原中也(中学)
谷敏行の絵というとなぜか、中原中也を思う人が多い。
谷敏行自体は中原中也なんて知らないだろう。
マンガとロックだけ。
けれど、どういうわけか、
谷敏行の絵を見て中原中也を思ってしまう。
若くして死んだこと、不幸のあまりに死んだこと、
双方おしゃれさんであったこと、
そして作品の明るさ、あっけらかんとした明るさ……。
このあたりは似ている、と言えば似ているのだが。

以下はドラゴン6章に新たに追加したいとして
戸沢英土が送ってきた中原中也の歌。

中原中也(中学)

人みなを殺してみたき我が心
その心我にわれに神を示せり

中也15歳、中学生のとき
嘆異抄にある親鸞発言に耽溺しての和歌。


戸沢英土は、これは現代にも続けて通ずるとして、こう書いてきている。

誰でも何かをたたき殺す勢いで生きているのだと思う。
人間だけではない、殺処分が凄すぎて、
今は山里にすら野良犬などいない。
人間性を剥奪しなければ社会的には生きられない……
いや、そんな生優しいもんじゃない。
まさに処分という形で、
環境をクリーンアップしていく流儀が現代でしょう。
誰でもが加害者。汚染まみれの食料を押しつけあう……

平和で綺麗な社会……
でもその実体はこうだと、と戸沢英土は見ている。
谷君の絵画世界もその背景にはこの中也の世界がある、
うわべの綺麗でクリーンで平和な世界を剥いだ世界で展開している……
戸沢英土の見方ではこうなるのだろう。
嘆異抄は、親鸞の言葉を弟子の唯円が書き残したもの。
中也の和歌はその中の親鸞の言葉

「人を千人殺してんや……」

に触発されて書かれている。
人を千人殺して見ろ、
そうしたらお前は成仏するだろう……と
唯円が師匠親鸞に、はなしを持ちかけられている場面だ。
嘆異抄の中でも有名なくだり、
まことに物騒な場面とはいえ、中也のような解釈は見たことがない。
おそらくは間違った解釈とされるのだろうが、
私はこの解釈が一番、親鸞の心を表しているように思った。
谷敏行の月
中也の和歌の下半分
「その心われに神を示せり」が、
はじめのうちは、分からなかった。
だが、谷絵画をみて、この「神」が、
谷絵画集「花札物語」の神だと気がついた。
大きな口を開けている怖い顔のお月様、
これが彼ら、中也そして親鸞の神だと。


親鸞の天空にあったのもこの神様。
蓑傘1つで全国津々浦々を放浪、
惨苦の民衆を救おうと苦しみ転げ回った親鸞。
彼の言葉はどれも尋常ではない。
尋常でない神様に喘いだ親鸞、中也、そして谷敏行を思った。

戸沢
「だからせめて自らの創造物だけは美しくあれ、と
文化を飛び越して妄想で世界を作ってしまう。
平和で穏やかで……
でもそれは嘘世界、白々しい嘘世界……」

大半の人は皆、その世界を真実と見るのかもしれない。
それを自然としてそこにいやされるのかもしれない。
だが、どうしてもそうは見ない人がいる。
たわけたい嘘世界としか見ない人がいる。
沈んだと思ったらまたまた現れてまたもや私たちを襲う。
1個、2個ではない、3個も4個もつぎつぎと現れて、
更なる不幸をもたらし、私たちを追い込んでいく、
そういう神としての月。
そういう月が
大きな口を開けて
大笑いしながら
空を圧するばかりの大きさで輝いている。
5月、深夜、
かぐわしい柑橘類の花々の芳香の向こうに細くたたずむ月。
誰もが、その姿にあざむかれてしまう。
誰もが本来の月を知らない。
恐ろしい神としての月。
皆を優しく暖かく包み込む神様ではなく、
隙あらば、殺処分と躍り掛かってくる神様、
千人万人を一どきに殺して笑う神様、
そういう神様が、夜の向こうに、こうこうと輝いている。
貴女には見えないかもしれない、
だが、わたしの上にも
また、貴方の上にも、等しく
あの恐ろしい神々が、
空を圧するばかりの大きさで、輝いている。

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法然旅(2)

自分の書いたものは、まず見ない。
当初は特にそう。
ページをめくりもしない。
めくりたくない、というより、めくることができないのだ。
 
対談者の中本道代さんもそうらしいが、
私の場合は、そこに魔のようなものを
閉じこめて来たような気がするのだ。
私の魔、ボウイの魔、エミリ・ブロンテの魔、そうして法然の魔……
犯罪者と同じ、やっと始末した。
早くずらかろう……後をも見ずに一目さんと今回も逃げるはずであった。
 
ところが今回はなぜかそれができない。
いちいち捕捉まで作り、その捕捉が又気に食わず、
いちいち捕捉に付箋をつけて、
梅原猛氏まで、問い合わせた。
果たしてこれでいいか、どうか等々。

程なく梅原氏から返事、と思って開けたら、
新刊「「葬られた王朝」。
次のページをめくったら梅原氏がセーター姿で例のニコニコ顔。
これでいい、これで進めということだな、と解釈して捕捉は終了することにした。
 
ちなみに、「葬られた王朝」は古代日本が舞台。
これまで、聖徳太子、柿本人麻呂について、通説を覆す論理を展開してきた梅原氏。
これに対して「誹謗、中傷、冷笑、黙殺が続いた」が、今ではこっちの方が通説になってきていると書かれている。
今回は、3度目の挑戦、古代歴史に挑んだもの。
アマテラスやスサノオの世界が、新たに古代からよみがえり、出雲を舞台にダイナミックに動き出している。
 
法然の場合も通説とおりとはいかない。
時は鎌倉時代。まず仏僧が今とは違う。
僧は僧でも僧兵が跋扈、高名な祖師たちも殆どが武家出身。
教理自体は穏便平和ながら、白刃、ぎらつかせて、カーッ、キーッと、切り結んでいるのが実状。
『ドラゴン6章』では、それぞれの教理も相互に激しく切り結ぶものとして解釈、今までとはやや異質の法然像になっている。

そもそものきっかけは、
明け方の4時の幻覚。
訪ねて来られたのはどなただったのか。
この方の意向で、法然部分を新たに追加したように思う。
だが、2月から3月、京都、岡山など法然ゆかりの寺を回ってみたが、どこにも似た方は見つけることができなかった。
結局、氷解したのは帰宅後。
法然の高弟、源智、うっかり見落としていたこの方の画像を梅原氏著作の中に発見。
見覚えがあった。
この方ならよく知っている、なぜかふと納得した。
 
800年の歳月を乗り越え、
はるか荒唐の地、千葉県までこられるとは!
いかにも奇怪な話ながら、源智という方は、そういう方ではなかろうか?
がっちりと、完璧に師、法然を守り、記録にとどめたい……この一念で、今も現世を歩いておられるような、気がする。
 
そろそろ4月、
今はもう明け方4時にたたき起こされることもなく、まぶしい朝日の中で目を覚ましてる。
源智様は、これら捕捉の追加で納得されたと思いたい。
捕捉を入れ込んだ下巻も今後に試みるべきかと思われる。
 
トットッと、ずらかるつもりが、
とんだ長居、どうかと思いつつ……
「法然旅」は、ひとまず、ここで終了としたい。
(阿賀)
Friday, March 29, 2013
 
 
 
 
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20世紀と殺人鬼(2)

sade

おそらくはサド、彼こそが、ヨーロッパ・ドラゴンが密かに隠しとおしてきた裏側、もしくは波間に沈めた尾っぽではなかったか?
サド発見をもって初めてヨーロッパ・ドラゴンは全容を現したのだ。
サド公爵の下に隠れ潜んでいた「嘘、悪、醜」の概念は、プリンス・モニーを得て、生き生きと胎動を開始、より巨大かつ強力なドラゴンとなって空へと浮上、空を泳ぎ始めたのだ。

あえて極論してみたい、むしろ真善美により近いものとして嘘悪醜の類を、置くべきもの、置かざるを得ないものではなかったか?
ホロコーストを思う時、防止策として、ふとそれを思う。

ドラゴン2章では、この連綿たる西欧哲学の具体化したものとしてナチス帝国をとらえ、その盟主ヒトラーが力説し、人々を魅了した「正義」という事象自体にも疑惑の目を向けている。正義とは何か?
ソクラテス以来、無傷のままに2500年を生き延びた真善美とは何なのか?

机上ではなく、実際の日常で、それらを他と分別して取り出せるのか?
真善美をそうでないものから取り出せるのかどうか。
愛の裏に死がはりついているように、善の裏には「悪」がはりついて、美の裏には「醜」がはりついて、そういう形で、同一のものとしてあるのではないだろうか?

私たちが、毎日の日常のなかで、「正義」を目ざすとどうするか?
すぐさま、それとは相反する殺害や抹殺の欲動が動き出すはずだ……いやまずは、それら「悪」が先にあるのかもしれない、
「悪」の発生と同時に私たちは、それらに善の衣装をつけ始め、こうして善への欲動が始動する……という流れではないか?
表裏一体のものとしての正義と殺害、また善と殺人があるのではないか?

ホロコーストとなると、ヒトラーという人物の特異性を言う場合が多いが、それにしては余りに多くの人が殺害に手を染めている。
正義への志向は、そのままユダヤ人殺害となって稼働したとみたほうがいい。

私たちの表面の意志とその裏にある実体。私たちはその実体を知ることができないままに、けれど結局はこの実体に引きずられて動いていく。
ドラゴンでは、発言者の自説はさておき、カタログ形式で自説に代わる各種の書物を引用紹介していくが、そのスタイルでいうなら、法然にいう「内心と外相」か?
『ドラゴン6章』に法然の選択集から引用している。

表向きの外面(外相)が善人なら、それは悪心を内部に隠したため、だから内側の心(内心)は、悪をいっぱい溜め込んでいる、との説。つまり善人なら腹の中は悪人。反対に悪人ならば裏側では善人となり、悪人は正機と論理が進む。

つまりこのあたり、悪人正機説の基盤となるかと思われるが、ここで問題。
悪人正機説は親鸞、それも親鸞の根本思想とされているもの。それを『ドラゴンintheSEA』では法然としている事への質問が多くあった。

「ドラゴン6章」、「親鸞は法然をひたすら崇拝して、法然の教えをまっすぐ追った人で、悪人正機説なども親鸞の説のようで、実は法然が言い出したこと。彼独自のものではないのです」、この部分だ。

悪人正機説と言えば、親鸞の弟子、唯円による「歎異抄」、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」。
親鸞の言葉として記録され、親鸞思想の根本思想とされているもの。
だがこの同じ文言が、もっと早い時期に法然の言葉として「法然上人伝」に記録されているわけで、ここが発端。
こちらの作者は法然の高弟の中でも、法然最愛の弟子とされる源智。
梅原猛『法然の哀しみ』(小学館文庫)は、源智の書を見て、そのまま親鸞側が記録した、と推測している。その逆、弟子の言葉を先生が習う、ということはないので、この通りだろう。

歎異抄ではその解説、「たとへばひとを千人殺してんや……」のあたり。
こういう過激部分は親鸞ならではのもの。歎異抄によって、法然の悪人正機説が、命を得て現代に華々しく浮上したかと思われる。

千葉県佐貫町、神野寺には親鸞自身が滞在中に彫り上げたという親鸞像が残されているが、これはもうどこから見ても山賊の親分。目の玉ギョロリの親鸞で、いかにもいかにもこの面構えならではの発言と思えるのだが、そもそもの発端となる思念となるとどうだろうか、親鸞側の文書では、見つけることができなかった。

法然は逆。
先の選択集だけでなく、法語集にも悪人正機へとつながる言説は多い。

とはいえ、とんでもない教説である。悪人が正しい、悪人の方が正しいとなると、殺人鬼だの泥棒だのの方が正しい、となってしまう。
普通ではこういうセリフは、出てこないだろう。
両親をいわば悪人として惨殺された法然以外ではまず、発語されない言葉ではないだろうか。

なんとしても法然には悪人を成仏させる必要があった、悪人を「正機」とせねばならなかった……・法然とするならこれらすべてが無理なくおさまるのだ。
 
 
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女人成仏

パンチャタントラ
梅原猛『法然の悲しみ』は、特に母親鎮魂ための女人成仏に注目している。
仏教での「悪」と言えばまず女性。
釈迦も美しい妻を捨てる事から始めている。
法然が師と仰ぐ中国仏僧、善導は特に女嫌い。
女性恐怖症に近い。
この善導をおしいただく法然のこと、悪人といえば、まずは女性が念頭にあったはずだ。

法然の悪人正機説は、一般的悪人の成仏に加えて、この女という「悪人」もまたしっかりと成仏させてしまう。
となるとどうなるのか。
妻帯OKなど日本独自の仏教へと変容。
親鸞みたいに女犯の罪などクヨクヨする必要もなくなって、実に重宝便利だが、それだけでなく思考スタイルとして、世界に例のない哲学となるのではないか?

主義主張、宗教も、まずは「否定」をバネに浮上する。
民主主義なら、君主主義やら独裁政治の否定、キリスト教ならそれまでの多神教やユダヤ教の否定……。
当初は旧弊が一掃され、ありがたいのだけれど、必ずそうではないものの迫害を伴うもの。
民主主義だから安全と呑気に構えていたら、反民主主義の国とされたばかりに、雨霰と爆弾投下、殺戮専科となって民主主義なんぞ吹き飛んでしまっている。

法然仏教には、まずは「否定」がない、「悪」がない。
主義主張に付き物の攻撃力が削がれている。
悪の征伐なしの安全な思考として、法然仏教はもっと注目されてもいいのではないか?

 
インドの悪女


パンチャタントラ
パンチャタントラ
『ドラゴン6章』では、古代民話「パンチャタントラ」から、悪女を登場させ、その悪女に堂々たる悪の理念を喋らせているが、ちょうどお釈迦様の国の古い古い民話、当時、女性はこういうものとされていたのかもしれない。

法然選択集には、これら悪女の描写に似た記述もあり、女人成仏もひょっとするとこの古代インドの性悪女性を念頭に置いての教説かとも思われたのだが、法然の悪人は、どこか南国風、カラリと明るいのだ。

親鸞、歎異抄での悪人は、やむにやまれず悪事をなしたとか、どこか悲壮感が漂う。
親鸞としては、これぞ師匠、法然の根本思想、より一層強調したいと、ガンガンの劇的発言となったのだろうが、元々の法然発言は、もっと広やかなものではなかったろうか。

法然にいう悪人は、取り立てての事情もないままに元からの悪人。
悪こそが人の本性。だから悪が「正機」なりとケロリの風情。
これはもう、今世紀の劇的発見、リチャード・ドーキンス、悪の遺伝子の世界である。
800年も前からそんな土俵に平然と座っている。

悪人正機説では悪人がいなくなってしまう。だから地獄もない。
死後の地獄行きを恐れて貴族たちは広大な所領を寺に寄進、その土地を耕す農民達もしっかり年貢を奉納してきたが、地獄がないのならもうその必要はない。
他のどの教説より、よりいっそう旧仏教の経済基盤を脅かす教説として、バッシングを受けてきたのだろうが、ともかくあの恐ろしい地獄を、閻魔様もろとも、バッサリ消し去ってくださったのだ。
何ともありがたいこと、特に悪人の方々は、法然さまに感謝しなくてはそれこそ、バチが当たるだろう。

一世紀、ローマ帝国の凄惨なキリスト教迫害への怨念が、新約聖書を作り出したと、D・H・ロレンスは言う。
書物だけではない、重大な事象の裏には、消しがたい何らかの怨念がある。
梅原猛『法然の哀しみ』は、非業の生に沈んだ母への哀惜が法然仏教を導いたと説く。
法然仏教も又また怨念のたまものかもしれない。
だが母を思う故の怨念は、どこかロマンに満ちて美しい。

なんだかんだとはいえ、私たちの時代は殺人鬼の時代である。
清楚で余りにも善良な母親に育てられた清廉な青年ヒトラーが正義を求めるままに史上最大最悪の殺人鬼へと変容した時代を生きてきたのである。
日本殺人鬼、机竜之介またヨーロッパ殺人鬼、プリンス・モニーは、20世紀ドラゴンを語るには必須不可欠のアイテムかと思われる。
 
 
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マリリン・マンソン

マリリン・マンソン
また一つ、法然とあまりにかけ離れたロック歌手マリリン・マンソンとを、相並べて話を進めたことにも抗議の電話があった。
マンソンと言えば、数多のロック歌手の中でも悪玉の最大手、それを聖人君子ではナンバー1の法然と並べたのか?
いかにもいかにも相反する二人である。
だが、どういうわけか、その言説が似ている。あまりにも似すぎている。

元々マンソンに近似した人がいない。
セリフも又同じ。法然にしか見つけることができなかったのだ。
逆に法然も相当な変わった人ではないだろうか、類似のことは他の誰も、書き留めていない。
仕方なく遠くアメリカまで、足を延ばすことになってしまった。

悪を暴き立てる人は多い。
親鸞は、悪いのは天皇と政府上層部としっかり決めつけて書く。
これは今時の「政府が悪い、首相が阿呆だ」と騒ぐ私達と同じ、親鸞人気の所以だろう。

ともかく悪いのは、他の誰か、自分ではない。
自分は善人が前提。この上で、物語は語られ、続いていく。
いったいその逆があるだろうか。自分は悪人と主張する人がいるだろうか?
まず悪人は本は書かない、主張もしない、歌も歌わない。せいぜい刑務所でぼやく程度。
例外がこの二人。恐らく世界に滅多にいない例ではないだろうか?
この二人だけが騒ぐ。
肌の奥まで悪が染み着いて、絶対にとれないと騒ぐ。

普通は違う。
私が悪人のはずがない、と誰もが思っているわけで、この二人に同調する人はまずいないだろう。
だからこのあたりの法然に注目した人はいないのだけれど、これもまた悪人正機のカナメの部分ではないだろうか?

法然の父、漆間時国は押領使。所領を広げるため、あるいは守るため、人殺しも強奪もやったはず。
マリリン・マンソンの父親は、ベトナム戦争。ヘリコプターからベトナム全土に猛毒の毒薬をばらまき続けた。
日本に治療にきたベト君兄弟のように、子供達は身体がくっついて生まれたり……。たくさんの人を殺してしまった。
私の中には恐ろしい父親からの悪の血が流れている
マンソンも法然と同じ思いを抱えていたのではないか。

マリリン・マンソン
若き日のマリリン・マンソン
法然の場合、外相が福徳円満なら内心は逆、内心にはマンソン姿で苦しむ法然がいるのだろう。
マンソンの内心もわからない。
『ドラゴン』ではいかにも清純な彼の幼少時の写真を添付したが、こういうマンソンがいるのではないか?
マンソンは、大勢の小学生を演壇に乗せて一緒に歌ったりしている。
世界中にファンを抱えるロックスター、彼を神様として、あがめる子供達も多い事だろう。
法然と相並べてもそう、そうおかしくは、ない人物かもしれない。

あの穏やか円満な法然であるのに、ここまでたびたび法難に見舞われた人はいない。
1つは選択集への批判。時の高僧、明恵は法然、選択集を標的として、立て続けに『摧邪輪』『摧邪輪荘厳記』の2冊を刊行、徹頭徹尾、選択集を非難しまくり、法然を「犬畜生」とまでののしっている。
だがどうしたことか、法然側では特に抗弁もしないままに終わっている。
法然流罪については、その大著『教行信証』で、主上が悪い、政府が悪いと書き立てた親鸞も、これには沈黙、『摧邪輪』への論駁はなされていない。

ここまで言われて黙っているのも、どうだろうか?
その代わりに、と言っては変なのだが、今回、『ドラゴン6章』は『摧邪輪』の細部に分け入り、明恵への反論を試みた。

明恵は70巻もの書を残したそうだが、他はともかく『摧邪輪』については脆弱、凡庸である。法然『選択集』には足元にも及ばない。

ドラゴン対談者は全員、無宗教。うち一人はキューピー人形を神棚において拝んだりの情けないテイタラクではあるが、つまりかなりお粗末でもOKだが、摧邪輪には閉口した。
たがこの摧邪輪を念頭におくことで、「一枚起請文」にしろ「教行信証」にしろ、その意味が鮮やかに立ち上がってくる。

特に「一枚起請文」、「一文不知」のくだり。
文字や言葉を、また学問を知ることで、私たちは多くのものを失い、取り返しのつかない不幸を抱え込んでしまった。
知の原点、「学問」にグサリと楔を打ち込んだ名文だ。

また一つ、『一枚起請文』の眼目としての「観念」の否定。
明恵でいえば、菩提心や清浄心,『ドラゴン』でいえば、正義や善、これら言語のもたらす概念のタグイをまとめてバッサリ、『観念の念に非ず』と否定してしまった。
圧倒的な自信を背景とした法然の独断、何とも鮮やかだ。

当初、一枚起請文を摧邪輪への抗弁と見た。
それほどみごとに摧邪輪の細部までを見通したかのごとき完璧な反論となっている。
ところが実際には『摧邪輪』の刊行は、法然の死亡後の翌年。
おそらくは法然側では今後に起こるであろう、『選択集批判』を的確に予測、それへの対応策として準備されたものだろう。

法然の死に相前後して起こった旧仏教側からの法然バッシングが、かえって法然人気に火をつけたとも言われるが、一挙に法然ブーム、これでは日本中が法然一辺倒になると、日蓮まで嘆かせたのも、ひとつには、この名文、『一枚起請文』の力だろう

津々浦々の誰もが理解したであろう簡潔な短文。
だが高僧、明恵だけが、解読できなかった。
あまりにうず高く積みあげた学問の山に閉ざされて、じかに日常を見る視力を失っていたための解読不能ではなかったか?
簡単明快な『一枚起請文』をまったく理解できないままに、『摧邪輪』『摧邪輪荘厳記』の二書を刊行、法然打倒のつもりが、いやましに法然の魅惑を喧伝する結果を招いてしまったと見る。

法然の高弟 源智
法然の高弟 勢観房源智上人 知恩寺蔵
法然は「一枚起請文」執筆のその2日後に死亡している。
書かせたのは源智である。悪人正機説を記録したあの同じ源智が最期まで法然に付き添い、執筆を懇願したとされる。

源智は平重盛の曾孫。
画像では女性的な風貌だが並の人ではないのだろう。
あの豪壮広大な知恩院、知恩寺を建立するほか、異常な執念で法然のその後を延々と守り抜いていく。
 
 
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