イガイガ本ニュ-ス【新刊2冊のお知らせ】

2017.4.1

■魚野真美・第一詩集『天牛蟲』(かみきりむし)

大阪の詩誌『Lyric Jungle』(編集:平居謙)で活躍中の若手詩人、魚野真美。
商都大坂を踏みしだいてダイナミックに開花している。
添付の挿し絵は詩篇「じん、じん、騒ぐ」から。
花が窓辺を飛び出し、ジンジン突き進んで行く……

首を吊った花
窓辺でかわいて
落ちる
・・・・中略・・・・
外へ
飛び出してゆき
飛び出してゆき
ゆきゆきて

じん、じん、
騒ぐ
     「じん、じん、騒ぐ」から

 
 
枯れた花までも元気、いいことではないか。

「大大阪純情飴雨アラレ」
「酩酊ユニバース」
「三角地帯に勇み立つ日まで」
等々
商都大阪の息吹が迫って圧巻。

 
 
 


 
 
■阿賀猥・エッセイ集『あまりにも、あまりにも』5月刊行予定

フーバー回顧録から
F・ルーズヴェルト
法然の高弟 源智
勢観房源智上人 知恩寺蔵



阿賀猥のエッセイ「詩学」連載のものから1編。
対談本『ドラゴン in the Sea』刊行後に開示された新資料で
日米開戦の裏事情を紹介する2編など。

たとえばフランクリン・ルーズヴェルト。
民主主義の旗手のようなもて方だが、実は彼は、
よほど以前から日米開戦を策謀してきた「殺人狂」とする
アメリカ31代大統領フーバー回顧録を紹介。
『ドラゴン in the Sea』上巻、真珠湾攻撃の裏事情を補強する。

ルーズベルトは稀なる美形。
人権論者の夫人のほかに数名の愛人がいた。
これは鎌倉仏教、法然にいう「内心と外相の不調」の典型的な例。
内心と外見は真逆のときが多い。
美男美女は危険ということか?

さほどの美男ではなかったが、
普遍的な正義を言い募ったヒトラーといい、
きれいごと、きれいなイデオロギーが席巻したのが20世紀。
世界中が正義やら良心やらに目覚めて走り出してしまった。
共産主義にしろナチスの思想にしろ良心にもとずいて、よき社会を目指したもの。
だがあまりにもの虐殺。
ソ連の虐殺被害者はナチス犠牲者の10倍以上にものぼる。
これをどう解釈すればいいのか?

このあたりもかの法然が有効だ。
一枚起請文「観念にあらず学問にあらず」と
正義、ないし善、良心など観念の一切を一刀両断に糾弾する法然思想。

戦後日本詩の情念の基幹でもある良心だが、
法然流にメスを入れざるをえないのではないか?
法然教理、普通に見れば、奇怪、不可思議にも見えるが、
今世紀おそらくは22世紀、23世紀へも直進、有効に稼動出来うる哲理かとも思われる。

あまりにもあまりにもの過激な教理に、口を閉じよと師を制する弟子たち、
「皆様、法然様のいうことは聞いてはいけません」と言い立てる者もいる。
「いや私は首を斬られてもいい、これだけは言っておきたい」と法然……
騒然とする中にただ一人進み出てしっかりと記録していく勢観房源智。

本稿では、若き法然高弟、源智にスポットをあて、源智の側から法然を探って行く。

あまりにも、あまりにも(悪人正機の悪悪悪)2

■勢観坊源智

勢観房源智は、元々は平清盛の嫡男、重盛の孫。
まず天台宗座主慈円もとで、出家得度したのち法然のもとに入室。
以後法然の死まで18年、法然に近侍して法然に学び、仕えた人物。

天台座主慈円は時の権力者九条兼実の実弟。
平家の遺児が生き延びるのは至難の時代、
源氏の探索を逃れるためにまずは法然、慈円に頼ったのだろう。

源智の祖父、平重盛は英明かつ勇猛な清盛の後継者として
一門の期待を一身に集めた人だが、途中で病死。
もし彼が壮健であったなら、とつい思わずにはいられない。

ああまでのあっけない滅亡には突入しないままに、
平家は永続、源智も政治の中心にあって
活躍していたのではないだろうか?

ついそう思わずにはいられないほどの源智なのだ。
特に法然死後。建立された寺の規模とその数の多さ。
法然建立として、源智の名前は出さないのものの法然死後の建立、
源智の建設による、広大は知恩院、百万遍地恩寺、金戒光光明寺……
いったいこの費用は誰が出したのか?
観光見物のつもりがつい気になって、訊ねてみたりした。

政府の援助ではない、全国の信徒が出しているのだ……と寺は胸を張るが、
京阪神だけでなく、南は九州から近畿まで
全国の信徒園数数万人を統括していたのがこの源智、その辣腕に驚く他はない。
だが遠い国にながされ、布教さえままならない、
いわば半ばは罪人であった法然に惜しみなく、
自身の富をつぎ込んだ信徒たち……
源智の辣腕もさることながら
法然教義への絶対の共感がまずは基盤だろう。
ここで、また法然教理、
その奇怪なまでの核心、「悪人正機」に戻りたい。

善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや

 
悪人が善人よりいいとはどういうことなのか。
この悪人正機、親鸞ではなく法然が言ったとしたら話は違ってくる。
以下法然の選択集の一文で明解ではないか?

謂はく内心と外相と不調の意なり。即ちこれ外は智、内は愚なり。
善とは悪に対するの辞なり。謂はく外はこれ善、内は即ち悪なり。

 
正式には選択本願念仏宗という。太政大臣九条兼実の要請で作成されたもの。読んで字の如しで、いちいちの説明は不要かもしれまいが、
……外見(外相)とその人の内心は同じではない(不調)。たとえば外見が智恵(智)
あるようなに見えるひとは案外に愚かな人の場合が多い。善悪についても同じ。
善と悪は相対してあるものだ。外側が善である人、つまり善人として振る舞う人は、
内心はというと、悪心でいっぱいとなる。

いち早く深層心理学。無意識の動きを言っている。
外側が善、菩提心満載の善人になれたって事は、
腹の中にどす黒い悪を隠したって事で、代わりにお腹の中は真っ黒。
そんな嘘つきのどこがいいのかってなる。
それよりか、お腹の中を丸出しの悪人が良いに決まってる……。

日常体験することも多いのではないか?
法然は実践の人。
飢えた人には、お粥を配っていた絵図が残されている。
そこらの皆が実際に役立つ論理を言うのだ。

突然訪れた人にどう対処したらいいのか?
満面の笑みで、甘い未来の夢を語る優しい人、まさに善人。
その人を信じていいのか?いや、それは悪者。オレオレ詐欺。
ごっそり持って行かれるよ。と法然はいうのである。

教説ではない。
善人悪人、二人の生身の人間を前において、
どう判断するかを言うのだ。

だがこの実利優先の論理は、ずばり私たちの深奥に直進。
20世紀、21世紀までも貫通する私たちの精神の核の部分を切り開いていく。
「善と悪は同一のもの」……
それは一人の人の中にあい並んで、あるものなのだ。
互いに排斥することもなく、相互に必須不可欠のものとして、作動していく。
善は必ずその内部に悪を内包し、悪もまた内部に善をかかえもつ、
善と悪、それらはその存立の基本要因として、その内部に相反するものを抱え持つのだ。

私たちは、私たち自身を知らない、私たちの裏側にすむもう一人の私。
それがどう思い、どう動いていくのか、知ることができない……
20世紀初頭、フロイトが開始した深層心理学である。
法然はすでにこの世界を生きていたのではないか?

自身を天使なりと言いつのったままに処刑されたナチス幹部もいる。
品行方正、清冽な正義を目指し、全ての人を魅了した彼の上司アドルフヒトラー。
そして彼が行った残酷の数々。
彼も悪鬼としての自身には気付かないままに天使として生を終えたのではないか?

遙か遠い過去から法然は彼らをしっかりと分析、
善人の恐ろしさを、悪人よりいっそうに恐ろしい人としての善人を思ったのだ。
これらは現実にその人を並べてみればわかるのだが。
教義として論理として内心と外相。
この論理「外相と内心」を理解できる人がいたろうか?
まずは「善人なおもて往生す……」これを収録した法然上人伝が厄介だ。

あまりにも、あまりにも(悪人正機の悪悪悪)1

悪人正機説もまるで知らなかったわけではない。
これをおさめた嘆異抄とやらが、またまた名著の由、
聞き知ってはいたのだが、最近まで読んだことがなかった。
顔のせいだ。
問題は親鸞の顔。こんな顔の奴がまともな事を言うはずがない、
こう思ってページはめくらないまま。

親鸞といえば普通にはよほど歳を食ってからの顔、
それも簡単な素描のものばかり。

全体もぼけていてよく分からない。
浄土真宗側が隠しているのではないか?とつい疑ってしまうが、
30代、40代、壮年期の顔が描かれたのは見たことがない。

90歳の最晩年までガンガン書き連ねた親鸞、
何歳になろうがモーロクのはずはないが、
それでもなんとかモーロクを待って、やっと描かれた肖像画、
やっとボケかかって、なんとか大人しくなられたときの顔……
それだけが出回って欲しい……こういう思惑での肖像画とか?

だが彫刻はそこここ残っている。
九州のはずれ、とかこんな所に?という
ひなびたお寺にあったりしてびっくりする。

近い所では千葉は佐貫。
内房線の「さぬき駅」(正式駅名は佐貫町駅)で下車。バスで1時間の神野寺。
虎が逃げ出して有名になった寺だ。
いまは真言宗だがその昔は浄土真宗。
親鸞が滞在して自身で彫った座像が残っている。

はじめは気がつかなかった。
このあたりの豪族か?このあたりにも戦国大名、
異名はマムシの斉藤道三、
そんなような男がいたんだな、思いながら眺めていた。

眼光ケイケイ、怒気をはらんでにらみつけ、
今にも飛びかからんばかり。
受付でこれが親鸞と聞いてもしばらくは信じられなかった。
宗教家のかおではない、山賊、海賊、強盗の顔である。

まさか、この男、自分のような悪漢が正しい、
あんたらみたいな美人さんより、
またそこらのお偉いさんより正しいとか言っているのではないか?
まさかとは思うがたまにそういうずうずうしいのがいる。
……なんとなんと結局はこの「まさか」だったのか?

==============================

まずは悪人正機説、これは以下である。

善人なおもて往生す、いわんや悪人おや

 
大変に有名な一文だが、この意味となるとまず大半がお手上げ。
大半が分からないという。

往生というのは極楽往生のこと。
直訳すると、

「善人でさえ極楽に行くことができるのですから、悪人ならまず大丈夫。間違いなく極楽に行きますす」となる。

悪人は死んだら地獄とおもっていたら、なんと極楽に行くというのだ。
悪人の方が、善人より先。
まず一番に極楽に行くというのだ。
つまり、悪人の方が善人より正しい、としているのだ。

こういう説は他には見当たらない。
外国にもないのではないか?
善と悪との身分を逆転させてしまっているのだ。

歎異抄は危険として長く公開されなかったのも、
この部分のためか?ともおもわれるが、
なぜ悪人の方が善人より、いいのか?
これが分からない。

めでたく成仏、極楽についた思ったら、
石川五右衛門やらアルカポネやらすごいのがゾロリとなると困るではないか!
だれがこんな厄介なことをいったのか?
親鸞という説と法然という説の2説がある。
今まではずっと親鸞の説とされてきたもの。まずは親鸞を探った。

それらしいことはモヤモヤと幾分か書いてあるようで、
この嘆異抄からは、しかとは掴めなかった。
どこか他に詳しく理由を書いているはずと、親鸞の文書を隈無く探した。

膨大な教行信証4巻、何でもかんでも書きまくる親鸞のこと、
その中に書いているるはずだ……ところが、結局なかったのだ。

善人については、書いている。
善人は余りに汚いと罵倒しているがその理由、なぜ汚いかは書かれていない。
悪人はなぜ善人より立派なのか?
その理由を親鸞からは見つけることができなかった。
ひょっとして親鸞、その理由は分からなかったのではないか?

たとえ法然師匠にだまされたとしても、かまわない。
法然師匠についていくと言う歎異抄のちょうどこの前の2章にある。
法然の教説とはいえ、中にはよく分からない教理、
ピンとこない教説もあったのだろう。
この悪人正機あたりもそうではなかったか?

最近では、悪人正機は法然の説とするのが普通。
法然の高弟源智の「法然上人伝」に同じ文が
法然の発言として記載されていたからだ。

これは歎異抄より50年も前のもの。
作者の源智は幼き日から終始法然のもとにあった人物。
おそらくは源智が法然から聞き取って書きしるし。
それを親鸞など、だれかれが写し取っていったのだろう。

法然絶筆、一文起請文はこの源智の要請で書かれたもので、
法然はその2日後に死亡している。

息も絶え絶えの法然を無理無理たたき起こし、書かせたのだ。
それまで冷酷な人と反感を持っていたのだがなぜか画像を見てすべて氷解した。

画像は京都百万遍知恩寺の奥、分厚いコンクリート壁の蔵の中にある。
この人は法然を熟知している。
ひょっとして法然以上に熟知していたのではないか。
法然を愛し法然を守り、その死後までも守り続け……
そういう人物ではなかったか。

地恩寺境内の奥で、墨染め粗衣をまとって
半ばほほえんだままに700年を経た源智。
ただの画像である。
小さな軸の絵でしかないが、
いまだ生命を持ったままの人物として、微笑んでいらっしゃる……。

その細い穏やかな目から、全てを射抜くかに見える眼光を発し続ける源智画像、
叡智はこんなにも暖かく幸せなものであったのかと不思議に思った。

醜悪な精神4「アドルフ、涙の主張」

SO WHAT 「アドルフの受難」

これは谷敏行の描くヒトラー像
「アドルフ、涙の主張」。
当社新刊、「谷絵」のなかのコラージュ作品。
 
ひたすら正義をこの世にあまねく
広めたいと必死のヒトラー像だが、
それというのも明恵様と同じ、
ただただ我が身は正義のカタマリ、
至純の人と信じこんでるいるゆえだろう。
 
そう信じたいならそれはそれでしょうがないとして、
その御姿となると、このあたりがピタリではないだろうか。
 
 

正義のひとの職務は悪漢退治。
バッタバッタと恐ろしい力で
悪漢を撃破しなければならないのだから、
たとえ自身では自覚しない場合でも
正義の方々はその裏側には
しっかりドカンとすざまじい攻撃力を
貯蔵しておられるはずで、
それ故の正義の主張のはず。
 

あまりに強力が過ぎて、
ついには辟易、逃げだす人々……と
正義感ヒトラーの凋落まで「谷絵」は書き込んでいるのだけれど、
ここまで来ると正義漢の真逆、
「悪人」も、案外な面もあるのではないか。
 
むしろ真逆の「悪」の方が、よかったり……なぞ、
フラチな思いが、ついフラフラと浮上したり……かくていよいよ、
法然の奇怪な論理、「悪人正機説」がお出ましとなるのである。
 
 
 
◆一言芳談

妄念をおこさずして往生せんと思わん人は
生まれつきの目鼻を取り捨てて
念仏申さんと思うがごとし
(一言芳談)

 
法然の発言である。
強欲だの色欲だのの悪心、妄念を捨てて、
極楽往生を目指すというのは、
生まれつき持ってる自分の目や鼻カットして、
仕事に励むようなもの。
肝心なものがないからあまり効果はないんじゃないか?
 
こうつぶやかれたのだ。
奇怪といえば奇怪だけれど、
まことに鮮やか、見事なつぶやきではないか?
 
目や鼻は自分の中心部分。
妄念を法然は、そういうものとして
位置づけていたのである。
 

悪心邪心色欲強欲などなどの妄念、
これらは、人たる者の中心、
だから捨てることなどできない。
捨てた、というなら嘘である、
嘘からなにを生みだそうというのか?
こう疑惑されたのである。
 
今から700年前の東洋日本国に、
現代英国人リチャード・ドーキンスがタイム・ワープか?
恐るべき頭脳を想わざるを得ない。
 

千年万年、私たちは妄念を抱えて、
妄念のおかげで、生きてきた。
敵を攻略し、食い散らし……
かくして妄念遺伝子は脈々と生き続け……
これが生物の生き様である、
千年来、万年来の生き様を今更変えられない。
…………和洋折衷するとこうなる。
 

法然には著作は少ないが、
こいう発言の記録が沢山残されている。
おおむねかなり過激で面白い。
 
当時は仏僧は仏典の棒読みだけ。
その意味を噛み砕いて
解るように喋る僧はいなかったから、
よほど珍しかったのではないか?
 

人々は法然に集い、
その一言一句を書き付けては、
争ってその語録を読んでいたようで、
都大路を荷車引いてるばあさんが、
法然の言葉を書いた書き付けた紙切れを
道に落として右往左往探している記事も残っている。
 
問題は「正義のひと」である。
 
法然流でいうなら、
中心部分をすっぽり欠落させた人、
異様な欠陥人間ということになる。
 

無論、そんなおかしな人はいるはずがない、
お腹の中に、隠しているだけなのだ。
だが当人は気づかない。
 
なぜなら目がない、鼻がない、
……感知する器管をそぎ落として
しまっているから解らないのだ。
 

嘘つきではない、
明恵は、またヒトラーはわからなかったのだ。
 
一言芳談が、「生まれつきの目鼻」とした明察に
まずは、息を飲んでしまった。
感覚器官、
これを取り出したことにつくづくと感服してしまった。
(続く)

醜悪な精神3「美しい精神」

 

明恵とヒトラー


 

京都栂尾高山寺
恋につかれた女が一人、
大島つむぎにつづれ帯が
影を落とした石だたみ
京都とがのお、高山寺
恋につかれた女が一人、

 

これは、かってヒット曲。
永六輔作詞「女ひとり」
ゆったり長閑な曲、
うっとりいい気分でつい口ずさんでしまう、
明恵のゆえか?

高山寺は、高僧明恵の寺。
高徳のホマレ、高きにも高く、
高山寺自体も標高はけっこうあるのに
それでも足りないとして、いちいち
裏山の木の上に座ってる絵図が残っている。

明恵

時は鎌倉、
名君、北条泰時制定の貞永式目は
明恵の影響下に作成されたとされる。
政治理念にまで採用された倫理思想を生み出した人物、
権勢と並びなく、かつ心優しい人としても
様々も逸話が残されている。

仏様を「お父さん」と呼び、
タツノオトシゴだか、小さい虫だとかまでかわいがっていたとか、
親鸞のように「女」に走ることもなく、
せいぜい飴桶を抱えて飴をなめる程度であったらしい。
安全無害、これぞ聖人正に善人タイプ。
誰もが100%好きになるタイプではないだろうか?

ここまでの清廉潔癖となる日本にはなかなかいない。
ヨーロッパまで目を向けて、
近くは、議会で99%という脅威的なまでの
信頼をキャッチしたヒトラーくらいか?

幼き日は無論のこと学生時代も同じ、
下宿先ではあまりの生真面目に周辺を驚かせていた。
女性といえば、ただ一人、母上だけ、
乳ガン死の母上を慟哭、
あまりの激しさに、医師は奇異な印象をうけたほどだ。
(ここに知られざるヒトラーの秘密が隠されているのだが)

さて、話は東洋日本国、
この優しいこの明恵が
法然に牙を剥いたのである、
まさに阿修羅のごとく、狂ったように
法然を罵倒しまくったのだ。
 

汝は即ち畜生のごとし、また是れ業障深重の人なり
『摧邪輪』
 
近代法滅の主、雅のこれ汝をもって張本となす
『摧邪輪荘厳記』

 

まず『摧邪輪』、
翌年には『摧邪輪荘厳記』立て続けに2冊。
本タイトルは「サイジャリン」と読む。
「摧(ザイ)」が砕くという意味だから、邪悪を砕くという意味。

だがミイラ取りがミイラ、
むしろ書き手の明恵の邪悪がモロだしになってしまっている。

正に選択集の「内部と外相」である。
外側があまりに善良であるだけに、
明恵が内部に押し隠した諸々の邪悪、
攻撃心やら嫉妬やら、が凄まじいまでに極大化してして、
外側に暴発、法然に火となって噴出したかと思われる。

 
 

清浄心


 

法然罵倒が目的ながら、長々しい大冊、
それだけで埋まらないわけで、
法然拝む代わりにこれ拝めということか?
菩提心、これがポイント。

 
「浄らかな心もしくは煩悩にけがれていない心とは菩提心である」
 

摧邪輪で明恵はこう説明しているが、
清浄心とも言っている。
正義、良心の類か?

結局このあたりもヒトラーに通じていくわけで、
清廉だの正義あの、ひとりしっかり実践すればいいものを、
ヒトラーもまた、これがなにより大事と、がんがん演説、
大勢の人々を魅了してしまうのだ。
 
「普遍的正義」
 
これを正に力の限り喋りまくり、吠えまくり……
一時期にはドイツだけにとどまらず、
英国人やユダヤ人までファンは広がっていった。

正義の仕事は悪の征伐。
明恵の場合は「悪」は法然。
法然一人を攻撃すればよかったが、
ヒトラー場合は「悪」はユダヤ人。
ユダヤ人は数が多いので、大惨事となってしまった。

けれどそのもとは、正義、良心、清廉、清浄……なのだから、
ヒトラーを嫌うわけにはいかないのか、
どこまでもヒトラーを慕い続けて
どんづまり隠れ家の地下壕まで、
臣下は随行、恋人は共に自爆の道を歩んでしまう。
ヒトラー、ここまで真剣に愛された政治家はいないのではないか?

いったいナチ帝国とは何だったのか?
至純無垢な男が作った正義の国、
正確には、自分は至純無垢と確信する男、
作ろうとした理想の帝国ではなかったか?

そして思うのだが、ヒトラーと明恵、
双方、心のなかは正義だけ、
悪心はかけらも排除して生き続けた人、
行き続けたつもりの人ではなかったか。

そして思うに、だから思うに、
正義とは、また清浄とは
恐ろしいものはないのではないだろうか?
(続く)

醜悪な精神2「リチャード・ドーキンス」

とタラタラ続けてきて、ここに来てハタっと思い出したのが、
遺伝学者リチャード・ドーキンス先生。

ご存じ二重螺旋の発見者、
今世紀最大の発見を成し遂げたとされる人だが、
この人にあっては上記のようなタラタラは許されない。
このバカタレと怒鳴られだろう。
刹那だって?一瞬だって?
馬鹿抜かすな、ごまかすな、ってことになるだろう。

事は毎日毎日なのである、
毎日毎日、人たるもの醜悪で一貫しているとおっしゃるのだ。
つまり、あちら様は科学者、
古来より今まで、長々と、かつ、あちらもこちらも広範囲に広々と、
一貫して共通して流れるヒトたる者の定則を
取り出されて醜悪の精神をおっしゃるのだ。

頭のテッペンから足の爪の隅々まで、
細胞の1つ1つも例外なく、かつ話は遺伝子世界だから、
その寿命も億年万年を生きるミトコンドリアのレベル、
億年万年長々と悪の精神一本槍。
強きになびき、弱きをくじき、弱きをいじめ、
弱きを倒し、弱きを食って、弱きを食い散らして……
こうして生き残った悪のエリートというのだ。

ゲンジツはキビシイ。
生き残るにはこれしかなかった……
というとちょい惨めったらしい話にもなるのだけれど、
エリートと言うあたりはポイント、
誉められている気もするから、
このあたりで、気をよくしてもいいかもしれないが、
この外にもう1つ、美貌との関連だ。

ドーキンス写真
ドーキンスの若き日の顔写真。
彼の発見はともかく、彼の論理のほうは当然ながら、
非難ゴウゴウ、あっちにもこっちにも嫌われたためか、
それこれあちこちに反駁文を書きまくり、
目下はパッとしない爺さん顔が出回っているが、
若き日を見るならまさにニュートン以来の美貌ではないか?

「真なるものは簡明だ」

 

昨今、大発展を遂げた物理学の世界。
学者たちは複雑怪奇な数式をあれやこれや書き連ねたあげくにある日、
奇妙に簡単な短い数式にぶち当たり、ふと漏らすのがこのセリフ。

これにもう1つ、発見者ドーキンスの美貌に
あやかって加えてもいいのではないか?

「真なるものは美しきかな」

 

その正確かつくわしい理由は後回し、後でゆっくり考えるとして、
まずはドーキンスの美しきカンバセを心に留めておいていただきたい。

つまり、神尾和寿詩編、醜悪なる精神の
グラマラス軍団を美女集団と見たのは、1つにはここからだ。
「悪」が基本形。
基本を隠さずモロだしにする、簡明なるは、真。
真なるものは美しい。よって醜悪なる者は美しいのだ。
(これも変?変なるものは美しきかな?)
 
 

悪人正機説


 

イカレた事をいいだすのはその昔からイギリスのお家芸。
ヒト=醜悪なんぞ厄介かつ不快は
たとえ真実そう思っていても普通は言わないもの。
英国人となると、それをまた臆面もなく大声上げて、世界に向けて喚き散らす。

ローリング・ストーンズやらセックス・ピストルやら、
悪玉系ロックアーチストの元気な方々を見るに
この奇妙な論理も英国専売特許かと思われるだろうが、これは違う。

その歴史的な古さから見ると、我がジャパン国。
なんと1300年代の鎌倉時代、法然と親鸞の悪人正機説。
この二人が、まずはガンガン喚き出したのだ。

奇妙な論理だから、実は逆説なり……とかややこしい解説をいう人も多いが、
なんせ単純明快、簡単安直をモットーとする法然と親鸞、
これはもう単純に、「悪人は正機」
つまり「悪人は正しい」と解釈するしかないだろう。
つまり醜悪なる者は正しいのだ。

法然か親鸞か。
どちらが先にこれを唱えたか?
いままでは親鸞の説と見られていたが、
より古い法然の関連文書が出てきたため、最近は法然の説が有力。
私から見ると、これは資料あるなし関係なしに法然。
親鸞は師の説はちとおかしいとたとえ思っても、
ひたすら正しいと盲信して、
師の説を広めんとして、喋っていたかと思われる。

なぜかそう言うのか?
悪人の方が善人よりただしい理由を親鸞はカケラも書いていないからだ。

親鸞は晩年にあっと驚く大冊、教行信証を執筆。
これだけあれば何処かにはあるだろうと
しつこい私は目をサラにして探したが見つからない。

親鸞は書きたくとも書けなかった。
実は親鸞、その理由がわからなかったのではないか?
なぜ善人より、悪人の方が正しいのか、分からなかったのではないか?

かたや法然、
抜群の頭脳とされながら著書はわずか。
そのわずかの中の1冊選択集にスバリ、その理由を書いている。

謂はく外相と内心の不調の意なり。
即ちこれ外は智、内は愚なり。
善とは悪に対するに辞なり。
謂はく外はこれ善、内は即ち悪なり
(前掲『選択本願念仏宗』)

 

私たちの内心と外面は違う。
同じには動かない。
外見が知恵者のように見える人は、その中身は愚かであったり逆に動く。

善と悪はただ単純に相対する言葉にすぎないもの。
(それぞれに固有の実体を持つものではない。
 元は一つのもの。
 1つのものがこの相対する2つの性格を同時に持っている)

だから外側に善がでている時は、
内側つまり心の内部にはその逆の悪が出る。
つまり善人と見える人の内部はドロドロの悪で満ちている。
悪人はこの逆。
内部には「善」が詰まっている。
外見はどうあろうと内心は美しき人なのだ。

カッコ内は個人的補足、
やや詳しく口語訳を試みたが、ここで、さてどちらのタイプがいいのか?である。
悪モロだしと悪の隠蔽と、どちらの方が正しいか?
法然は前者、悪人を選択するのである。
悪モロだしの悪人の方がいい。
悪人の方が正機である……こう断定したのだ。

以上、
一種、深層心理学である。
目下はフロイト、ユングが席巻。
外部に吐き出された言葉を信じる者はいない。
言葉の世界、モロモロの哲学論理もすっかり意気消沈、
ロゴス殿は地に落ちてしまった。

言葉ではなく、その裏を探る。
問題は内部。言葉はその内部を探るヒントでしかない。
これが現代。つまり法然セリフでいうなら、外相ではなく、内心。
内心を注目する。
はるか昔、心理学もない700年も昔の親鸞が
解読できなかったのも無理はない。

しかし法然は別、
法然だけは悪人正機の理由を明快に記述、
ついては神尾詩編に登場の醜悪精神モロだしグラマラス女性軍団を
美貌の理由をも鮮やかに明示するのだ。

「醜悪なるものは正しい。正しいものは美しい」

 

法然の選択集は出版されたのはずっと後になるが、
それまでは高弟にだけ配布、門外不出となっていたもの。
何事もお見通しの法然は出版したらどうなるか、
それをしっかり予見されていたわけで、
出版されるやいなや非難ゴウゴウ、
あちこちから総スカンを食ってしまった。
その一番は明恵。