斉藤さんは、気に入った詩集があると、作者を訪問される。詩の背景をじかに見たくなられるのだろう。
生憎の冬。庭木は殆ど花どころか葉もつけてないので、いかにもパッとしないのを気にして吉田さんは、あっちこっちうろうろ、裏庭やらゴミ置き場まで、いよいよパッとしないところへ。
「ああ、本当に、今はなにもありませんねえ」とため息。
じきにこの裏庭にも丹精された花々が咲き競うのだろうが今はなし。
いかにも「ぶきっちょ」な吉田さんらしい案内だ。
以下は冒頭にある短詩
神の手料理
吉田ゆき子
臓物を火で炙った
お互いに
それを料理ととてもいえないが
わたしらはそれで
実をつけたのではないか
ぶきっちょな実であるが
生きることが
料理なんておこがましいが
わたしらは皿に盛られる
神の料理として
これだけが短いので、全文を書き写した。
どの詩編も不思議な静けさと暖かさを湛えて、けれどきっかりと30編が続く。
この毎日は私たちの日常のようで、実は神様の手料理、と視界をぱっと天の神様レベルまで、もっていって、しめくくる『神の手料理」、人の日常だのは、その程度のものでしかない、という意味あいもあるだろう。
だが、人の手を省かれて、機械だけで、大量に量産されるこのオートメーションの時代に、神様に手をかけてもらえるなんてすばらしいことではないだろうか?
どの日常も、さほどに輝くようなものでもなく、立派なもの、はないのだけれど、不思議に神様の手料理になっているのではないか?
神様が作られたような、尋常でないある品格を持った世界、それが白い小さな詩集の中から、1つ1つ、くっきりと確かに立ち上がってくる。
神的品格とでもいうのか、こういう品格を持ったものは、最近すくない。
かっては森鷗外。
どのページをめくってもめくっても、変哲もない静かさが続いて、結局どの作品も変わらないのだが、なぜか次から次に買い足して読み続けた。
友人にも鷗外ファンが多かった。
これがないと落ち着かない……と終始本と言えば鷗外だけ、読み続けていた人もいた。
実際の作者の日常は、そうそう静かなはずはない、鴎外にしろ吉田さんにしろ、動転し四苦八苦の毎日だってあっただろう。
なりました
わたしの 中に
ずっと 価値観 を
根深く 張って いたの ですが
今日 伐る 事になりました
こうして始まる。
その日常で、自分自身を根こそぎ、刈り取らざるを得ない何らかの挫折または大きな絶望があったのだろう。
短い区切りで、トツトツと続く、その区切り方に、多すぎる空白に、事の重大さが伺える。
だがその事の内容には、一切、ふれられないままに淡々と続き、以下で終わる。
頼もしく作業を始め
木はどっどっと
倒れたのでした
簡単なものではなかったのだ。
大事な大事な世界だったのだ。
一番大事なものだったのだ……。
タイトルは「木を伐ることに なりました」、見事なタイトル。
生涯でそうそう出あうことのない珠玉の詩集。
この浮薄な平成に、こういう詩集が誕生したのが奇跡のようにさえ思われる。
※引用は、「鼓膜の内外」(思潮社/¥2200)から。