南風桃子詩集『うずら』2

南風桃子『うずら』空とぶキリン社
南風桃子著『うずら』空とぶキリン社


南風桃子さん
南風桃子さん

 

QP人形
 
奇妙なエッセイも書く漫画家の戸沢タマさんは、
ちいさなころ、QP人形を神様として拝んでいたそうだ。
茶箪笥の上のQP人形に何かといえば、願い事をし、
災難を取っ払ってもらっていたらしい。

その話を聞いた時は、そんなもの拝むなんて気が知れないと思ったのだけれど、
このうずら詩集を読んで、戸沢さんの気持ちが分かるような気がした。
これならしっかりと分かる。
誰にでも分かる。怖いものでも、凄いものでもなく、
マヨネーズとか、美味しいものの世界の何かだと、わかる。
福助も同じ、足袋だか靴下だか、暖かーいものの世界のなにかだとわかる。
福助
そして仏様のように、イエス様のように、万年一律不変不死の方々、
このお二方が、神様となって何の不都合があるだろうか。
なんせ本邦ジャパン国は、
神様といえば八百万もおいでになるのである。
少々増えようが、構うことではない。

というわけで、このうずら世界では
「福助」神に加えて、QP神もまたおいでになるのである。
キューピー


「秋」

夏を超えて吹き渡る風
 
「稲がワラッテル」
 
と、QP人形が言っている
なるほど
黄金色の稲穂は
ホホホ
と笑っている

 
 
タイトルは「秋」。
その中ほどで、QP神がリンリンとして立っておられる。
「夏を超えて吹き渡る風」の「超えて」に注目してほしい。
「越えて」ではなく「超えて」。

現世から異界へ、異界から現世へ、
現世の夏から、神霊界の秋へ、
境界を超越して吹き渡る風の中にQP様はお立ちなのである。
いかにも楽々と軽やかに現世を超える世界、超えられる世界で、
うずら世界は展開するのである。

稲穂の実る黄金の秋、元気いっぱい目はパッチリのQPさんには、
都会の小部屋の茶箪笥より、輝く稲穂のうねる田畑が似合っている。
QP神やら福助神に守られて、
ここでは稲穂だって、お隣の奥さんみたいに「ホホホっ」と笑うのである。

日本の神様、古来からの由緒正しい神様は、姿形がはっきりしない。
八百万の神、800万いらっしゃるのだから、たとえはっきりしたところで
どうしようもないのだが、だからといって「鰯の頭も信心」など
「鰯の頭」に代理をさせるとは、なにごとであろうか!

鰯は瞬く間に鮮度が落ちてしまう。
店頭に並ぶのはいかにもいかにも情けないしなびた「お顔」。
これを神様とするには余りに申し訳ない。
それよりは福助、またQPがまだマシである。

総じて私たち日本人は日本の神様を拝まない。
仏様とかイエス様とか外来種ばかり、
みんなして命がけで拝んできたのだが、これらはなんといっても外来の方。
本気で他国の者の願い事なんぞ聞いて下さるだろうか?
彼等は彼等なりに自国のことを思っているはずで、
元々は自国のための仕事を行おうと上陸されたのではなかったか?

例えばザビエルが連れてきたイエス様。
これはもう、鉄砲抱えていらしたのだから明白。
日本制圧のためにいらしたわけで、
こういう方に助けてもらうなどとは、無理な話、
見向きもなさらないだろう。

ここからいうとQPさんも福助も純然たる日本産。
おまけに鰯の頭のように鮮度の落ちないお顔のうえ、
他国の特命を受けておられるわけではなさそう。
安心しておがめるのではないか。
さほど偉そうでない分、明日のお弁当のオカズとか、
亭主給料アップとかしょうもないことまでお聞き届けて下さるような気もする。

渡辺昇によると、天皇家のご先祖はおしっこの神様であるとかどこかで読んだ記憶がある。
ああ、こんな神様じゃ、戦争なんて勝てるはずもなかったと今にして思うのだけれど、
どうも私たちの国には弱そうな神様が多い。

対して、狩猟門族の神様、イエス様やらエホバ様は強力である。
旧約聖書の22章。エホバ様は、アブラハムに信仰心の証しとして息子イサクをささげよと命じ、
アブラハムは息子を殺して、その肉をあぶる香りを神様に嗅いでいただいて喜んでもらおうとしたり……。

いかにもいかめしく強そうな神様だが、ここまでの神様には、関わりたくない気がする。

だからといって外来の神様は出て行けというのではない。
ここウズラ世界ではどういう神様がこられようと、万事どこ吹く風で、
みなさまをおおらかにお迎えして、お元気でおられるわけで、例えば阿弥陀様。


五劫のすりきれるまで
修行したあみだ
 
ちょっとまだやってんの?
バッカじゃない?
美しい天女が
衣をひるがえしながら笑う

 
 
タイトルは「あみだ」。
今度は、インドからお越しの「あみだ」様。

天女にからかわれて、なんともぱっとしないお姿になってしまわれてはいるが、
たまにはこれもいいのではないか?
弁天さまはシャンシャン三味線ひいておられたり、やや様がわりしてはおられるが、
このうずら世界、楽しくしておられるようでそれが嬉しい。

かわりに「ダンゴムシ」やら「ヒメマルカツオブシムシ」やら、
普通ではパッとしない変な虫の方々は、ちと偉そうにというか、
それなりの確信をもって堂々と登場されているわけで、
ああ、これならば、私のようなチンケな者でも威張ってていいような……とか、ほっとするのである。

強力な神様とか何かにしっかり守られていたいというのは、
誰もが思う理想なのだけれど、後ではどうだろうか?
守ってやったんだから息子をくれ、とまではないとして、
何か代償がついていそうで、油断出来ない。
強力な神様、強力な哲学、強力なドクトリン、主義思想皆同じである。

戦後70年、平和続きというのは世界でも珍しいらしいが、
君主といえば、おしっこの神様の末裔、若者といえば、すっかりふやけた飽食青年ばかり、
これではもう平和以外はいきる術がないわけで、まことに不安この上ないのだけれど、
おかげで安穏平和な繁栄大国が実現しているとしたら、不安は不安として弱さを喜ぶべきかもしれない。

とはいえ女性は繁栄より「愛」である。
最後にうずら世界の愛どうなっているのであるか?

 

こんなに風のある日に
まちを歩くと
すてき
あなたのかけらが風にのって飛んできそうで
あなたの心のにおいとか
あなたのひとみのひかり
使いかけの骨とか歯
いろいろいろいろ
飛んできそうで
ああうれしい
うれしいな
おねがいわたしのなまえを呼んで
風のなかで今
わたしのなまえを呼んで

 
 
 
南風桃子詩集、愛の詩編「南風」の全文である。
「かけら」とか「におい」とか「骨」とか、が飛んでくる。
だが肝腎の「あなた」というのは、飛んでは来ない。
きそうにもない。ここが味噌。
 
「それでいい」と作者は思っているのだ。
全部はいらない。
そんな程度でいいのである。
それで十分なのである。

西欧狩猟民族の恋はこうはならない。
たとえば英国「嵐が丘」
相思相愛の恋人たちはバンリキの力をこめてヒシと抱き合う。
身体衰弱化、死にかけていても同じ。
オペラ「椿姫」。高級娼婦マルグリッド。
死のベッドの上で、声たからかに我が愛を唸り喚き散らすのだ。

こういう方々にとっては、愛のかけらなど、そんなものが飛んできた所で
蚊が飛んでるかていど、気づきもしないだとう。
 
どちらの愛が真実なのか?
どちらの愛が高級なのか?

それは置くとして、事は我が身である。
長く深く欧州型過激愛に憧れながらも
ついにありつくこともないままの恨み辛みからかもだが、
はたして実際に、そんなものが飛んで来たらどうなるか?
つまり「あなた」がここに飛んできたらどうなるか?

バンリキの力で、ヒシと抱きつかれでもしたら、長身痩躯ベジタリアンの私など、
小骨の3、4本はパリパリ折れまくって、大骨にもヒビなどはいったりして、痛さも痛し、
「愛」どころではない。
全部はいらない、カケラでいい、カオリ程度でいい。
これが「愛」なのだ。

 

おねがいわたしのなまえを呼んで
風のなかで今
わたしのなまえを呼んで

 
 
最後の3連が秀逸。
ここでも風が吹いている、知力の果ての異界ヘと吹き渡る風、
この愛は無限にどこまでも貴方を追って行くのだ。

南風桃子詩集『うずら』1

九州はもう春なのかな?
大分県から、とっても可愛い詩集が送られて来た。
南風桃子さんの『うずら』
コロっとしたうずらちゃんの絵が、あちこちに散らばっていて、
これがまた可愛い。

南風桃子『うずら』空とぶキリン社
南風桃子著『うずら』空とぶキリン社


 

で可愛い可愛いを連発しながら、ページをめくって行くと、
おやおや可愛いだけでは、すまないので、コロッと、なにか変なもの、
こんなことを言っては神様に失礼と思うものの、
神様みたいなも のが、転がり出てきて……びっくりしてしまった。
 

天にこだまする福助の声
 
――おまえはカゴの中のうずら。
  いついつでやる?
  生きてる間に出られるとよいがな
  生きておる間にな
  イヒ。
  ――by 福助
       「福助」から(詩集『うずら』所収)

 
 

自由気ままにしてるようで、人もまたうずらと同じ、
いつも檻の中、なかなか出られない。
「出たぞ!」と思っても、たいがいは別の檻に移っただけ、
おそらくは生涯、檻暮らしではないだろうか?
 
この福助は違う。
平然と檻の外にいて、笑ってる。
おそらくは地球の外であろう。そんなところにいて、
酸欠にもならず、「イヒ」なんて、すごいではないか?
威張るでもなく、力むでもなく、サラリと「イヒ」。
ここが凄い。
これは、並ではない、この福助は神様だと思った。
これこそは正 真正銘の神様だと。
 
思い起こせば、今まで、神様または
神様らしいものを拝んだ記憶がない。
両親は無神論、家には仏壇も神棚もなかった。
たまたま隣が、神主さん。お付き合いで買うハメになったと、
母が持ち込んだ大きな神棚を見たことがあるがそれっきり。
その後は見たことがない。捨てたのだろうか、バチアタリなことである。
 

親戚の家にいくとまずは仏間、どの家も浄土真宗で、
馬鹿でかいキンキンランランの仏壇に手を合わせて挨拶となるのだけれど、
仏壇だから、仏様の像があったはずだが、思い出せない。
記憶から外れている。
いったい何を拝んでいたのか?
問題は仏壇の上の写真。祖父さん祖母さん、
そのまた前の祖父さん祖母さんの写真やら絵姿が
額縁入りで所狭しにひしめいていて、仏様どころではない。
結局はこの方々を拝んでいたのである。
 
仏様の両脇に親鸞様、
その先生の法然様の絵姿を飾られたらどうですか?と
お寺様に薦められたことがあったと伯母は言うが、
この伯母の家でもどの家でも、親鸞様法然様は見かけたことがない。
 

親鸞様といえば、全国各地に自身で彫られたという彫像が残っているが、
眼光ケイケイ恐ろしいばかり、山賊の親分としか見えないのが多い。
家に飾って拝む気にはなれない。
法然さまは、穏やかなまあるいお顔、こっちは拝みやすいようで、
殆どのお姿が横向き。これが気になる。
ソソソソっと何処かへ行ってしまわれそうで、不安になる。
流罪に合われた方、私たちの世話どころではないのでは?と思ってしまう。
 
その点、この福助様は違う。
動かない。ぺたりと畳にへばりついている。
お顔は完璧な福相。どういじろうといじれない、
何があっても「福」から動かない固定型幸福の顔である。
この方を拝まないでおられようか!
 

昔からの正統派神様、イエス様やら仏様の手前、
大っぴらにはいえないのだけど、実は私たちは、
密かに密かに、この福助を拝んできたのではないだろうか?
心の奥の又奥の深いところに小さな座布団をしいて、
福助様をほっこりと乗せ、ほっと一息ついたり……
そうやってきたのではないだろうか。

嵐が丘

ースクリフは何処からきたのか?

本文で、一度ならず囁かれる……ということは、
出自を読者が簡単に辿れるはず、もしくは辿って欲しい、と作者は思っていたのか?

さてどこからか?
『嵐が丘』の主、アンショー氏は旅先から彼を拾ってきた……という、旅先とはどこか。

当時の英国陣は、植民地に出かけて荒稼ぎ、莫大な富を本国に持ち込んで、
それぞれが宮殿まがいの自宅を建立していた時期で、
これは姉、シャーロットの小説『ジェーン・エア』の雇い主と同じ。
おそらくは、港町リバプールから出向、中南米あたりに出かけていたかと思われる。

ジェーンエアの主にしろ、アンショウ氏にしろ、そこでも家庭を持っていた……
そこで、もうけた子供を、連れ帰った……

つまり、『嵐が丘』
ヒースクリフはアンショー氏の実子であり、
キャサリンとは実の兄妹……こう読者は推測するとみて、
まずは、近親相姦の徹底否定のために書かれたと推測される。

エミリには、肉の愛を徹底否定する「愛」を提示する必要があったのだ。

つまり『嵐が丘』の目的である。
私たち兄妹の愛は、つまりブランウェル・ブロンテと、エミリ・ブロンテの関係は、
たとえ恋愛であったとしてもプラトニックな恋愛である……
この釈明のためにエミリは書いたのである。
 
 
当にエミリは全文を書けたか?

と疑惑もあるのだが、それは置いておくとして、
エメリには緊急に出版する必要があったわけで、
例え誰の作であろうと、とにかく緊急に自身の名前で、
自身が書いたとして出版する必要があったのだ。

エミリのたちの父親、ブロンテ氏は、アンショウ氏のような商人ではない。
人々の尊敬を集め、それなりの政治活動も行っている牧師館の主である。
その子弟が相互に「みだらな肉の愛」に耽っていたとなると、いったいどうなるか?

これは、まずは『嵐が丘』冒頭の宿泊した旅人の夢の中に登場、
怒り狂って押し寄せる会衆に教会がさんざんに踏みにじられる光景となって登場する。
この恐怖がエミリを終始支配し、兄ブランウェルを非業の死へと導いていくのだ。

「牧師館での子弟相互の淫らな肉の愛」……秘められていたはずを、
エミリは、その前年に赤裸々に書き込んだ詩を出版してしまっていた……
何としても、これを打ち消さなければならない……

つまり問題は3姉妹の詩集である。
エミリは、自身の実体を、ここに書き込んでしまっているのだ。

エミリは、姉シャーロットの3姉妹での詩集出版に猛烈に反対した挙句、
シャーロットに屈して出版はしたものの、大幅に手を入れて改作、その痕跡を消しさっての出版、
またその詩集、ほとんど売れていないのだから、誰も読んではいない、
そういう心配は無用なはずを、まだまだ恐怖に駆られていたのだろう。

詩集の痕跡を消し去らねば……

エミリはこれで動いていく。
普通ならこう売れなければ出版はしばし諦めるものを、エミリは逆。
早急に小説を執筆、今度は自身が出版社に出かけて出版交渉、刊行したしまうだ。
 


 
『ドラゴン in the Sea』上下巻にわたっての『嵐が丘』。

その作者は誰か? また、上記のような近親愛の顛末は電子書籍版の補注に詳しいのだけれど、
最近になって、牧師館の資料ほか、広範囲の公文書から、
父親ブロンテ師と長子ブランウェルの資料を大量発掘、
父とともに、政治活動も積極的におこなった闊達有能なブランウェル像が浮上している。
バカ、ダメ扱いのブランウェルだが、
最後まで優秀有能な友人たちに恵まれた卓越した人物であったかと思われる。

家族で決定、ブランウェルに画家修行をさせたのだが、
画家で経済的に自立するのは現代でも無理、貧乏なのは当たり前でる。
世間知らずの3姉妹に貧乏をさんざんにバカにされ、いじめ殺された……という彼の友人の意見も正しいと思う。

本当の作者はエミリではなく、兄ブランウェルである……これも彼の友人の言葉である。
これも半ばは正しいのではないか?
 


 
てさて問題は、エミリ灼熱の恋である。

プラトニックではない肉付きの愛である。

エミリ死後、姉シャーロットは、エミリの日記小説他、
大半を焼却して、それをたどれないようにしてしまったが、
妹アンとの共作長編小説『ゴンダル』には、
半ば焼却されたとはいえ、一部は残存、ここで見ることができる。

本(嵐が丘)を誰が書こうと知ったことではない。
輝かしい灼熱の愛、エミリはこの愛の思い出に殉じたのだ。
 
 
 
参考


『ドラゴン in the Sea 上巻』電子書籍版
絶賛販売中です。
こちらもぜひご参照下さい。

次回新刊本は3冊。

次回新刊本は3冊。
内容はおおむね完成。表紙でもめている。

まずは詩集「ヤクザみたいに綺麗ね」の表紙。
ヤクザみたいに綺麗ね表紙案1

花は、ゴールデン・ピラミッドか?
いやひまわりの一種? 又はコスモスか?

撮影は軽井沢。
au携帯電話で撮影したが、写真データをPCに移せなかった。
付属ケーブルで移せるというので、買いにいったら在庫なし、取り寄せ。
auショップは多いが、決まって不親切。威張っている。

仕方なしにあちこち似た花をカメラで撮影した。
本のどこかに、この花の写真があればいいような気がしていたのだが、
余りに沢山送ったので、制作担当が表紙に使ってしまった。
実は、これはワイシャツの模様に使いたかった。

南太平洋、オーストラリア上空あたりだったか、
飛行機で同乗の男が、それはそれは見事なシャツを着ていた。
一人は白、総刺繍、繊細で実に見事な柄で、目が離せなかった。
もう一人は、花模様、黄花ではなかったが、美しかった。

男性は双方白髪。
顔つきが尋常ではなかった。
行儀が悪く、足を上に突き出していた。
マフィアの幹部か? とか思ってジロジロ眺めた。
それぞれに尋常ではない女性を同伴していた。
彼女たちがまた騒がしかった。

さて、
よく目をこらすと、花々の中に顔をつけた花が一輪ある。
もう1つの表紙案は、この花が主役。

第2案
ヤクザみたいに綺麗ね表紙案2

こちらの表紙は、以前に著者、阿賀が構想した案に少々手を加えたもの。

花はナデシコで、この花に顔を書き込んで切り絵にしたのは、絵画作家アヤラン。
原画は、ピンクの薄紙を背景に、白紙から切り抜いたこの奇妙な顔を貼り付けたもの。

制作時間5分とかからないが、自由が丘の「もみの木画廊」に出品。
定価3万とつけ、奥村真が購入した。ためつすがめつ眺めての購入。
奥村真とはこれが初対面だ。

本の構想は10数年前、
すぐ出版のつもりが、このタイトル「やくざ……」の文字、
また、内容が危険ということで、無期延期としていた。

今回もスタッフほか、関係者全員で点検したが、
タイトルについては、以下、吉田ゆき子氏の話にふと納得するものがあった。

「かなり酔っていたっしゃった時だったと思います。
何かのはずみに、吉原幸子先生が「私はヤクザだからね」とおっしゃったのを思い出しました。
それが何かとても印象的というか、忘れられません」

 
そういえば、彼女に似ている、よくよく似ている。
髪型もこういう短髪であったし。
そう思えば、奥村真にも似てはいないか?

奥村真といえば、福生の飲み屋でたまたま隣席に座ったヤクザに殺されてしまった。
いわばヤクザの被害者なのだが、かなり似ている。

どこか孤立している。なぜか集団に帰属出来ない。
それでも傲然としている……とか、一人で自信満々とかではなくて、
それで寂しくて、どこか神経まいってる……という風なところがある。

ただ、本編の主人公はやたら頑健な女性。
ニックネームがドラゴンZと言うのだから、
さびしそうなところは欠片も見えない……ちと変なタイトルと言えばそうだ。
だが彼女にも、どこかの隅っこに「ヤクザ」みたいなのが潜んでいるような気がするのだ。

話に出てきた奥村真には、
彼の生涯をたどって、詩編も解説入りで紹介したイガイガボン「ぬらり神」があるが、
最近「猩猩蠅」「繚乱の春はるかなりとも」の2冊が上梓された。
発行人は中井健人、みごとな編集である。
改めて奥村世界に浸っている。

ミニ本『豆蔵1』『豚志向』

豚志向表紙
目下準備中の小さなミニ本2点をご紹介。

『豆蔵1』表紙
『豆蔵1』表紙

戸沢英土 エッセイ集『豆蔵1』
 
『ドラゴン in the Sea』でお馴染みの
戸沢英土エッセイミニ本。
 
かつて詩誌JO5に掲載、人気を博した「リカちゃん音頭」など、評論みたいだけれどチト奇妙な、いや、とても奇妙なエッセイを3編。
 
 

豚志向表紙
『豚志向』表紙

阿賀猥 もも色の蛤 ミニ画本『豚志向』
 
阿賀猥詩集『真実のお多福豆』から
詩篇「豚志向」をFlashゲーム化。
そのゲームをミニ画本に仕上げました。
 
共に8月末刊行予定。

江夏名枝詩集『海は近い』


砂を削る踵を残し、波はいつでも眠りに似ていた。
 
あしもとに繰り返される波の音を聴いていると、
わたし自身は生にも死にも属さぬ者であるかのよう。
 
生と死のいずれにも属さない「それ以外」。
 
砕けた貝殻を拾いあげると、
濡れた砂浜に全能なる者が通過していった気配がある。

 

長い詩の中の16番目、長い見事な詩が、ここで終わる。

江夏さんの家は海が近いのか?
我が家は海が近い。徒歩3分。
先日思い立ってワカメを採りに行った。

ずっと以前になるが、近所の料理の名人が作ったという
仰天するほど美味しいワカメを食べたことがある。
名人はもう亡くなられたので、どうやって作られたのかわからないが、
近場の海から収穫したものと聞いている。

海岸に着くとこれはもう、目の果てまで、ワカメの山。
ゴミのようにうず高く…で一挙に食欲減退。
とはいえこれは、「全能なる者」がのこしていったありがたいもの。
ワカメ4株、根ごと引きずり出してブラブラ下げて帰途につく、
わずか3分とはいえ、我が家は山の中腹。
程なくくたびれて、1つ捨て2つ捨てして
家にたどり着いたときは1株だけ。

で、料理方法はわからないので、そのまま、
生のままで食べたところ、これがまたもの凄い美味しさ。
今日のワカメは、流石、全能なる方が残された物、半端ではない。

野菜と同じ、とれたての美味しさなのかどうか。
ワカメで突然生き返った気がする。
(阿賀)